『えーえんとくちから』 (笹井宏之)
4月から笹井宏之さんの出身の県に住んでいる。駅の本屋には、穂村さんの歌集は置いていないけど、笹井さんの歌集は地元だから平積みされている。新刊のちくま文庫の『えーえんとくちから』も平積みされていたのを買ってきた。
途中まで読んだけど、どの歌も「いい」「好き」と思う。分かるって簡単に言ってはいけないのだろうけど、「その感じ分かる」って思ってしまう。私はどうしても短歌を深く読みこんだり、感じたことを言葉で表現することがあまりできなくて、直感的に「いい」「好き」と思うだけだ。ただ、ひとつひとつをゆっくり味わっておいしく読んでいる。
文庫で20ページ目の
からだにはいのちがひとつ入ってて水と食事を求めたりする
からっぽのうつわ みちているうつわ それから、その途中のうつわ
しっとりとつめたいまくらにんげんにうまれたことがあったのだろう
の3首は、読んでいて病室がイメージとして浮かんできた。勝手な私の思い込みかもしれないけれど、体や命を感じるときって具合が悪くてじっとしているときとか、そういうときだと思う。イメージとしての病室って、現実の病室とはまた別物だなと思う。なんか昔のドラマや映画で見たようなグレーがかった白の空間。明るいようで薄暗くて静か(実際の病室ってそんな静かじゃないと思う)。そんな光景が浮かんでくる。
どの歌もとてもよいので、こんな言葉をつむげることをうらやましく思ってしまう。「ゆでたまごの拷問器具」とかも、いつもあの道具を見るときに瞬間的に感じる自分の皮膚を切られるようなイメージをとてもうまく表現していて、くやしいほどだ。
作者は私と同じ年の生まれらしい。まだあまり詳しいことは知りたくなくて知らないのだけど、10年前になくなったらしい。今日が命日だそうだ。
創作の秘密を知りたい
創作の秘密を知りたい。自分が創作するのに参考にしたいからというわけではなく、ただただ、なぜ作者がこのような物語を思いついたのか、なぜこのようなものを作ったのか、作れたのか、なぜこのような展開にしたのか、なぜこんなセリフを思いついたのか、なぜこのキャラにこんな結末を用意したのか、このような終わり方をしたのか……物語を読みながらいつも疑問は尽きない。ひとつの物語を作ることって、とても人間業じゃないような気がするのだ。物語を作るのは人間しかいないのに。
もののけ姫 アシタカについて
前の記事で最近語りたいことについて箇条書きしているうちに、この件に関しては筆がのってしまったので、あらためてここに。最近ずっとこの件でくすぶっていたので(自分が)。
岡田斗司夫さんの動画がバズっていて、カヤがアシタカの子を身ごもってるという話になっちゃってるけど、あれは全部を真に受けてはいけないと思う。
冒頭の映像で、あの物語があの村に伝わったアシタカ伝説であるということは示唆されているのかもしれない。けど、カヤが身ごもったというのはあくまでそういうふうに想像することもできるというウラの話であって、少なくとも作品中に絵としてそれを匂わせるように描かれてはいないと思う(カヤは少女、乙女として描かれているように見える)。アニメ作品であるのだから、映像でそれを伝える意図を感じないのであれば、少なくとも作中ではそれは真実ではないと私は考える(あと、呪いを受けて出ていくとあらかじめわかっているわけでもないのに、二人がすでに通じている理由がわからないよね。呪いを受けた直後にそんな行為は絶対しないし)。カヤが身ごもってると思いたい人はそれでいいと思うんだけど、なんかあれが公式の「真実」であり「正解」というように考えちゃっている人がいるみたいなことに危機感を覚える。岡田さんの話は面白いけど、そういう見方も面白いという話であって。解釈は人それぞれなんだから「へー、実はそうだったんだ!!」じゃないんですよ。
だから、アシタカとサンの描写で肉体関係があるように感じたとするなら、それはそう感じた人にとっては真実だし。
で、最後に残る問題としては、「アシタカ、カヤにもらった玉の小刀をサンにあげちゃったよね??」ということなんですが。これは紛れもなく描かれた真実なのでアシタカ好きの私としては頭を抱える。私としては、そんなに気にならないことなんだけど。もうエミシの村に戻ることはないし、いま手元にあって何らかの気持ちを伝えるものがそれしかなかったし、当時はそういう「昔(ってそれほど時間たってないけど)の女性からもらったものを今好いている女性に渡すのは非常識」みたいな観念はないのかもしれないし。
でも、このツッコミを受けそうな描写を監督はあえて描いたわけで。特にストーリー上必要はないのに描いたというところが言い訳のしようがないというか。
私はこの作品全体をとおしてのアシタカの言動からうかがえる人間性が大好きで、どんなときでも向かい合った相手を尊重する人だと思っている。カヤの気持ちをないがしろにしているとは思わない。だからこのことでアシタカを見損なうなんてことはない。
じゃあ、監督はなぜわざわざこんな気になっちゃうような描写を描いたのか?事実かどうかしらないけど石田ゆり子さんに言ったとおり「男なんてこんなもん」ってことなの?まぁ、この又貸しならぬ又贈り(?)行為は男だけがするとはかぎらず、女だってこういうことする人はいるだろうし、ここから「これだから男は」って話に繋げるのは無理筋だと思う。
まぁ、むりやり結論めいたものを出すとすれば…
男女関係においては人はだれしも身勝手になると描きたかった
ということなのかな。「風立ちぬ」とかだとそれが顕著だよね。
でもその描写は、監督が得意とする、ひたすら美しくかっこよく誰もがこうあってほしいと願う少年少女の姿とはものすごーく相性が悪いんですよ。パズーとシータが美しいように、アシタカとサンも美しかった。だから、アシタカのこの描写は違和感があってどうしても見る人に引っかかってしまうし、できれば描いてほしくなかった。これもただの身勝手な意見だけど。パズーとシータよりは大人に近い欲を持つ存在として描きたかったというのもあるのかなと思うけど。
あと、このことでアシタカに反感をもつ人がいるのは、作中でこのことに関して他の登場人物の誰からもつっこまれていないからというのもあると思う。カヤにもらったものをサンに渡したのは視聴者だけが知っていること。だから何か気持ち悪いし、いつまでも言いたくなる。「逆襲のシャア」のシャアとかいろいろやらかしてるけど、周囲の皆が知っていて、ちゃんと総帥のことそういう目で見ているから視聴者としても納得して(?)見ることができる。
文章にしたことでだいぶ自分の考えが整理できたしすっきりした。アシタカが本当に好きなので、もののけ姫を見て私が考えるところを書いておきたかった。
語りたいこと
自分の好きな作品のすごさとか魅力とか、自分がそれについて思うことを語りたいと思うんだけど、文章の組み立てが下手すぎてすぐに諦めてしまう。
あと、自分が書いていることが正しいかどうか疑問に思えてきてやめてしまうこともある。作品を語るのにすべてを検証しなおしているわけではなくて、読んだ記憶をもとに印象として語る場合、何か間違っていることを言っていないか気になりだすと途中で手が止まってしまう。自分の意見が誰かの反発をまねいたり反論されたりするんじゃないかと想像してしまうこともある。だからといって、正確を期して検証して考察し続ける時間もないので、結局何も書けない。たぶん、読み直したとしても私が私であるかぎり受ける印象や思うことは変わらないと思うし(もちろん時間がたって変わることもあるけど)、だったら思い切ってそれを書いてしまうしかないと思うのだけど。でも常に何か考えてて文章化したいという欲求はあるので、忘れないようにテーマを箇条書きで挙げておく。
最近、語りたいこと
・田中芳樹先生が書く閉じた関係について。創竜伝の竜堂兄弟+茉莉。銀英伝のラインハルト、キルヒアイス、アンネローゼ。
銀英伝はキルヒアイスの死によって、そしてアンネローゼがラインハルトとともに閉じた世界にこもることを拒否したため、ラインハルトは外の世界に開かれた。私はその開かれる過程がとても好き。でもラインハルトがそれで幸せだったかどうかはわからない。
創竜伝の5人はどの世界にいってもこの5人で閉じている。この5人については永遠にそうであることを意図しているのか。
・ピーナッツ(スヌーピー)の作品としてのすごさ
あまり言語化されているのを見かけたことない。小ネタとかもめちゃくちゃあるのに。あれば読みたいし、できることなら自分で書きたい。
・みなみけのすごさ
とにかく会話を中心とした作劇のすごさ。これまでの会話の流れをうまいこと収束させるオチ。これを毎回やってるんですよ。誰かうまく説明してほしい。
・ピーナッツとみなみけはある意味近いかもしれない。