緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

文学や物語をめぐるエッセイが好き

今週のお題「読みたい本」


 読書時間が学生時代と比べるとめっきり減っている。ぶっ続けで読むということができず、数ページで目が疲れたり集中力が途切れたりして、今日はここまで、となる。間があくと内容を忘れて同じ箇所を何度も読むことになったり。まあそれも悪いことばかりじゃなくて、忘れたとは思っても頭のどこかに蓄積されてはいて、読むたびに理解が深まったり、長い時間をその本と共にすることで愛着がわいたりもする。

 私の読書時間は主に、通勤や帰宅のバス・電車に乗車している間である。ほぼ必ず文庫本一冊にブックカバーをかけて鞄に入れているのだが、読書じゃなく睡眠を選択することも多々あり、読んでいる本をいつまでもいつまでも読み終えられない。読み終わらないまま、気分で別の本に替えたりもする。そんなわけで、読み始めてはいるが読み終えていない本が何冊かあるので、それを今回は挙げてみようと思う。


・『式子内親王 永福門院』 竹西寛子

 目下、カバンに入れて読んでいる本。『詞華断章』という竹西寛子の日本に詩歌に関するエッセイが大好きで、そして最近、式子内親王の歌をよいなと思っていたので、そんな私にはぴったりの本である。
 難解なことが書いてあるわけではないのだが、筆者の思索についていこうとすると、文章を何度か行きつ戻りつしてやっと、そういうことかと理解するような箇所もある。その歌の良さや、歌から見えてくる歌人の人となり、思考などを人にもわかるように言語化するのはとても難しいことだろうと思う。深い洞察が不可欠であるし、一方で直感的、感覚的につかまえたことを理論立てて説明するという困難もある。歌を読み、味わうということは本当に果てしない行程だと思う。(けれど、そういう言語化の労をとらなくても、ただ歌を読んで好き!と思う楽しみ方もあるのが、鑑賞のよいところ)


・『ファンタジーと言葉』 アーシュラ・K.ル=グウィン

 ル=グウィンのいくつかのエッセイをまとめたものなのだけど、内容は多岐にわたり、何と説明したらいいものか難しい。ジェンダーやポリティカルコレクトネスについての話は、思慮深さと鋭さを兼ね備えている。一番初めの「自己紹介」という文章は、女性が(彼女自身も含め)ずっと二級市民として扱われてきたことへの強烈な皮肉を込めた、戯画化した自己紹介で、この本はこういう文章がずっと続くのかと少しとまどった。(そういうわけではなかった)
 彼女は子供時代、父親と交流のあったインディアンのおじさんたちと家族ぐるみで過ごした時期があり、その思い出についても語っている。実際のできごとを淡々と語っているのだが、大人になってから彼らについて理解できたこと、当時の自分へのああすればよかったという後悔などが滲みでていて、読んでいて胸がしめつけられた。
 後半の、物語を書くことについての話はまだ全て読めていない。この本の原題である『心のなかの波』(ヴァージニア・ウルフが「心のなかで作り出される文体の正しいリズム」を友人への手紙でそう呼んだ)という言葉にとても惹かれる。


・『定家明月記私抄 続篇』 堀田善衛

 前編である『定家明月記私抄』は先日、やっと読み終えたのだ。続篇はちょうど、『鎌倉殿の十三人』の時代ともかぶっていて、知っている出来事がでてきたりするとうれしい。


以上、今読みかけている本でした。時間をかけてもいいので全部読み終えたい。

hirinzu.hatenablog.com


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式子内親王・永福門院 現代日本のエッセイ

後朝の別れの歌いまむかし 古今和歌集と川本真琴

『うたの日』という短歌投稿サイト http://utanohi.everyday.jp/ で「後朝(きぬぎぬ)」というお題が出ていたので、そういえば何で後朝できぬぎぬと読むんだっけ?と思ってネットで調べていたら、こんな和歌に出会った。

 

しののめのほがらほがらと明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき

古今和歌集 よみ人しらず)

 

一目見て、この歌面白いなと惹かれた。しののめ、ほがらほがら、きぬぎぬと音の反復する語が何度も出てくる。和歌というより現代短歌的な技法を感じた。「ほがらほがらと」という語を私は知らなくて、こんな単語があるのかと面白く思った。意味はほぼ想像どおりだし。この歌は『明け方、空がしだいに明るくなってくると(共寝をしていた二人が)それぞれの衣を着て別々になるのがせつない』というような意味だそう。

この時代、男女が互いの衣を重ねてかぶって寝ていたので、共寝の後の別れのことを「きぬぎぬの別れ」と言うのだそうだ。この歌自体がまさにそれをわかりやすく説明するものとなっている。

 

この歌は技法だけでなく内容も現代的というか、J-popの歌詞に通じるものを感じる。単なる「別れ」ではなく、一つになっていたものがばらばらの個体となってしまうことへの心もとなさ。わたしの大好きな川本真琴の『DNA』の歌詞を連想した。

 

明日起こることみんなふたりじゃいらんない  それぞれさ  バス停が見つかんないといいなってちょっとだけ思っていた

(『DNA』 川本真琴

 

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これは2番の初めの歌詞なのだけど、その直前の1番のサビでは「眩暈の裸(からだ)が痛い  ほどけない重なる指」と歌ってるので、この二人は共寝したのだ。その翌朝、一緒に家を出てきたけど別々のバイト先なりなんなりに行かないといけない。それをぐだぐだ説明することなく、「バス停が見つかんないといいな」と一言でずばっと表現するまこっちゃんの詞のセンスが大好きだ。省略することで逆に気持ちをぴたっと表現するの、短歌に通じるものを感じる。歌詞には文章タイプと詩タイプがあると思うのだけど、川本真琴の歌詞は詩だと思う。

あともう一つ、まこっちゃんの歌で「明けゆけばおのがきぬぎぬなるぞかなしき」に通じる歌詞で思い出すのは『FRAGILE』の冒頭。

 

朝がぼくたちに降りそそぐ  別々の影に戻る

 

これなんて、ほがらほがらの歌とほぼ同じ情景を歌っている。そしてこの歌詞も表現が最強。

いろんな歌を知っていくほど、古今東西の歌がつながっていくのは楽しい。

 

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短歌 生き物

 

街灯の眩しさに夜も鳴く蝉の姿を探す残業帰り

 

 

台風の名残か道に蟹がいて川面も空もすがしい濁り

 

 

岩肌に暖をとるウミイグアナは微動だにせず天を見上げる

 

 

 

三首とも

うたの日

に出詠したものです。

二首目、ひらがなの「か」「に」が隠れていることに今気づいた。

 

短歌 帰り道

 

ここも星だと思い出す夕空に一番星と月の共演

 

 

1リットルペットボトルが追加されビニール袋のひもが食い込む

 

 

トラックはひたすら運ぶ今日も皆たりないものを必要として

 

 

 

『詞華断章』(竹西寛子)

もう何年も前にこの本を買って、電車通勤していた頃は鞄に持ち歩いて繰り返し読んだ。季節のうつろいを昔の詩歌とともに味わうエッセイなのだが、それだけではこの本の内容を伝えきれていない。ときに作者の心境やその時代への思いが書かれることもあるが、それほど詳細に書かれるわけではない。にもかかわらず、芯の思いが伝わってくる、時代の雰囲気が伝わってくる文章である。
どうしても、竹西さんの文章の魅力を私の文章で伝えることは難しいので、『いつよりの秋』という章から少し本文を引用する。

この章では、慈円の歌をひいている。

み山路やいつより秋の色ならん見ざりし雲の夕暮れの空

以下、この章の文章をいくつか引用する。

“その秋の若狭街道は、(中略)光がみちあふれているようであった。空の深さと薄の穂波の眩しさを未だに忘れることができない。”

“長いあいだ心を傾けていた歌人の生地を訪ね、朝といわず夕べといわず湾の岸に立って潮の音を聞き、(中略)飽きもせず往き来してきたというのに、ある念願を果すことで加わった予期せぬ心の重さに、私はとまどっていた。”

“見えてきたものが、まだ見えていないものの量をぐっと増した。心の重さは、新たに抱え込んだ不明の重さであったかもしれぬ。”

“秋の空を初めて仰いだわけではない。(中略)それなのに空はかつて感じたことのない澄んだかなしさで、(中略)。この時、私は、自分の中で何かが確実に変わったことを知らされた。”

“ふと気づいてみれば、あの夕べの雲はもう夏の雲ではない。山路にはいつから秋が訪れているのであろう。”

“私は慈円のこの歌が好きである。あれはもう夏の雲ではない、という秋の認識は、季を離れても通用する事物の変化の認識であり、そのようにしか認識できない変化に、彼我の世を見る思いもある。まことにいつからわれの――。不明にみちたこの身ではある。”



どうやったらこんなにも、自分の淡い物思いを掬いとるような文章が書けるのだろう。慈円の歌自体がまずすばらしい。「あれはもう夏の雲ではない」という感覚は、現代を生きる私たちにも理解できる感覚で、それを“いつより秋の色ならん”と、すっと詠めてしまう巧みさ。

そして竹西さんが語る、ある好きな歌人の生地を訪れて、十分その地を味わい手ごたえもあったのに、なぜか心の重さを感じたこと、空がこれまでと異なって見え、自分の中の変化に気づいたというできごと。傍目にはみえない、自分にしかわからない変化というものがあり、読者である自分にもいつかどこかでそう感じた瞬間があることを気づかされる。

慈円の歌と竹西さんの文章が二重に響き合って、人の心の不思議に感じ入ってしまう。

新聞に毎月一回、昭和63年から平成6年まで連載されたということで、一章(連載一回分)は文庫で2~3ページととても短い。その短い中に詩歌のよさと、竹西さんの文章の味わいが詰まっている。


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