『水中翼船炎上中』(穂村 弘)を読み始めた
2020年の初め頃だったか、まだこちらに引っ越す前に買った『水中翼船炎上中』をやっと読み始めた。穂村さんらしく装丁があまりにも凝っているので、ある程度家の中がきちんとした状態じゃないとなかなか読めなかった。手に取るのにも気を遣ってしまう。
穂村さんの歌は、言葉自体がまぶしい光を放っていて心がときめく。この感覚は吉本ばななの『キッチン』を初めて読んだときに近いかもしれない。
一首一首がそれぞれに美味しい。そしてそれがたくさんある。1ページに1~2首載っているとして、この本は200ページくらいあるのだ(もちろん章タイトルだけのページとかもあるんだけど)。初めの「出発」の章だけ読んで、もう今はこれ以上読むのはやめようと思った。時間をかけて味わわないともったいない気がする。
以下、『水中翼船炎上中』の中からいくつかの歌についての感想メモ書き。
みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと
「みつあみを習った」のあとに「窓」が来るのがすごい。みつあみを習った部屋の窓ということなんだろうけど、その省略の技術が視点を一気に移動させる効果も兼ねていて、短歌の魅力ってこういうところなんだなーと思う。そして「星がひゅんひゅん」に心をわしづかまれてしまう。
何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿
何もせず過ぎてしまったいちにち。それ自体は誰しも覚えのある経験。そこから「いちにちのおわりににぎっている膝の皿」と最後まで読むと、椅子に座っているのか体育座りしているのかわからないけど、なんだか妙に行儀よく固まってしまっている人の姿が現れる。過ぎる時間のなかで止まってしまっているその人の後悔のような、焦りのような感情が見えてくる気がする。
冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に
冷蔵庫のドアが開かれたままという状況は異常だということに、この歌を読んで気づかされた。
もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水
「もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな」状況ってわかる…と思うんだけど、それを鳴りそうな「時間」じゃなくて鳴りそうな「空気」と詠み、そのあとに「水」を配置することで、歌の情景ができあがるんだなー、と。
おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影
これもよくある日常の光景なんだけど、「あかときの台所」「立つ影」で何だか怖い感じに。「あかとき」という単語、よいですね。