緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

式子内親王の歌 うたたねと夢

新古今和歌集をぱらぱら眺めているうちに式子内親王の歌が私の好みだということに気がついた。「うたたね」とか「夢」という言葉が出てくる歌が多い。安直かもしれないけど、式子内親王うたた寝という行為が好きだったんじゃないかと勝手に親近感を抱いている。うたた寝したり、目が覚めてもしばらく枕に頭をあずけてぼーっと物思いにふける時間、私は好きだし、式子内親王もそのような時間を意識している人だったんじゃないかと思う。

式子内親王への興味が強くなり、とうとう関連する書籍をいくつか買った。その一つが竹西寛子さんの『式子内親王・永福門院』という著作。これを読んでいるとまさに私の好きな式子内親王そのものという歌が出てきた。

 

 見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中

 

これは現存する式子内親王の三つの百首歌のなかではもっとも早い時期に成立したと思われる『前小斎院御百首』に入っているとのこと。つまり比較的若い頃の作品と思われる。竹西寛子さんはこの歌を好み、著作の初めにこれを取り上げておられるのだけど、その嗜好、感性に私も共感する。

こんなに端的に、人生の来し方行く末に対する漠然とした不安、とまどい、不思議さ、それらがないまぜになった気持ちを表現したものがあっただろうか。本当にそうなんだよね、と、この歌を見るとしみじみと思う。未来の自分なんて想像もつかないし不思議な感じがするのだけど、同じくらい、過去にいた自分もそのときにあった世界も、本当に存在したんだろうかと不思議で信じがたい、まぼろしのようなもの。そして過去の自分も未来の自分も現在の自分とつながっているということが、ごく当たり前なのに不思議すぎる。

これを無常観とも言い表せるかもしれないけど、あまり達観した感じではなく「何か不思議だよね」という感覚をダイレクトに伝えている気がする。それこそ、こうやって個人の日記に書いてあるような感じで。でも、ただの散文なら、さらっと書けるけど、それを歌として美しく仕上げてるのだから、すごい技術だよね。この完成された歌を見るとさらりと詠まれているようにみえるけど。

 

ほかにも式子内親王の歌をいくつか読むと、やはり夢というものの不思議さに魅入られていたように思える。いくつかそのような歌を並べてみる。

 

 かへりこぬ昔を今と思ひねの夢の枕に匂ふ橘

 

 夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね

 

 束の間の闇の現もまだ知らぬ夢より夢に迷ひぬるかな

 

 始めなき夢を夢とも知らずしてこの終にや覚め果てぬべき

 

夢の不思議なところは、見ている間は夢だと気づかないところ。だからこそ、夢と現は入り混じる。そんな歌をいくつも詠まれている。言葉の響きも、その物の感じ方自体も美しくて、読んでいて心地よい。そんな式子内親王の歌にとても惹かれている。