緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

最近気になってる言葉 「あざとい」とか「無理」とか

ツイッターとかやってると、どんどん言葉って変わってくなぁって思う。従来の言葉の意味に、新しい意味・用法が付加されていく。「ヤバイ」がほめ言葉で使われるようになったっていうのはずいぶん前から言われてるけど、これはもう当たり前になっていて。最近私が気になってるのは「あざとい」と「無理」。

 

「あざとい」は、本来は「抜け目がない」「やり方が汚い」といった否定的な意味の言葉なんだけど、そこから、「思わず“あざとい”と言いたくなるくらい可愛い」という賞賛の意味も半分含むようになってきてるんですよね。でもこれ、ネットではもうだいぶ前から当たり前に使われてるけど、ネット文化に親しんでない人にはあまり通じない場合も多いみたいで。何かのテレビ番組で、「バカリズムツイッターに自分の可愛い笑顔の写真を載せていてあざとい」というような視聴者の投稿があったんだけど、番組内の芸能人たちは否定的な意味に受け取ってたもんなぁ。「視聴者には(意図的だということが)わかってしまうんですね」ってわりと真面目にコメントされていて、観てる私はあ~っと思ってしまった。説明してあげたい。あざといと思うということは、「可愛いと思わされてしまった」と認めているということで、相手の自意識を揶揄しつつも「はいはい可愛いですよ。参りました」ってことなんですよね。このニュアンス難しいけど、私はこの「あざとい」という新しい用法、嫌いじゃない。

 

「無理」の方は、ほんの最近、その使い方が気になるようになった。以前から「可愛くて無理」みたいな使い方はあって、要は「その可愛さに自分は耐えられない=無理」ってことなんだけど。若い世代のオタ界隈で特に広まってるのかな。これが「可愛くて」とか説明がついてればいいんだけど、最近ツイッターで見かけるのは、たとえばAというキャラが大好きなときに「Aがご飯粒ほっぺにくっつけてるの無理」「AがBと仲良くしてるの無理」「A無理」とかそんな使い方なんですよ。180度反対の意味にとられる可能性あって、見かけるたびにぎくっとしてしまう。まぁ、文脈わかってれば、「無理」という言葉の意味を誤解してのトラブルってのはそんなにないとは思うけど。でも、そのうち「やばい」同様、レストランの料理とかにも使われたりするようになるんだろうか。「このパスタ無理~(美味しい)」みたいな。(それとも、私がオタ界隈の表現と思い込んでるだけで、実はもうなってる?)「やばい」や「無理」の新しい用法は、ただただ過度な表現を追い求めたって感じであまり好みではないかなー。でも、若者言葉はいつの時代も新しい強調の表現を追い求めてるものだよね。

『ハイキュー!!』 白鳥沢の選手たち

仕事でもやもやしたことがあったので帰りがけのコンビニで何か気分の晴れるものを買おうと思い、手にしたものが『ハイキュー!!』21巻だったんだけど、これがもう想像以上のヒットでした。

私は『ハイキュー!!』のコミックスは持ってなくて、ジャンプ本誌で読んでたこともあったけど、ここ最近はジャンプ読んでないのでネットでの他の人の感想が唯一の情報源でした。21巻もコンビニに置いてるから最新刊だろうというくらいの認識で買ったんだけど、この巻は春高予選決勝、烏野VS. 白鳥沢戦の決着がつく巻だったんですよね。もうこれがめちゃくちゃ面白くて、すぐに白鳥沢戦の残りの巻(17~20巻)も全部買ってきて読んでしまいました。何がそんなに面白かったかっていうと、白鳥沢の選手のキャラや関係性がすごくツボで。平たくいうと、白鳥沢の沼にドボンしてしまいました。

 

※注意:上にも書いたように、ハイキュー!!に関しては読んだり読まなかったりで何となく知ってる部分もあれば、抜けがあったりもします。そんな人間の書いた感想です。

 

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千尋さんの女子力 (『千と千尋の神隠し』)

親元にいた高校生の頃までは映画館に行く習慣があまりなかったので、初めて劇場で見たジブリ映画は大学生のときに上映された『千と千尋の神隠し』でした。なかでもクライマックスの、千尋がハクとの記憶を思い出してハクが竜から人型に戻り、空中で二人が手をつなぎながら降りてく場面が大好きなんですけど、あのときの二人のやりとりって、あらためて聞くとすごく甘甘だよなーと思います。特に千尋さんはいきなり彼女っぽくなる。

 

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『十四歳のエンゲージ』 谷村志穂

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/pdmagazine

 

私にとっての青春の一冊ということで思い浮かんだのがこれ。ちょうどこの本に出会ったのが14歳のころだったこともあって、主人公のタエコと自分を重ねて何度も何度も読んだ。読んでいて一緒に心が傷だらけになるし、一見救いようのない結末を迎えるんだけど、不思議とそれで心が救われるというか、温かい光のようなものが残る。

谷村志穂というと恋愛小説を思い浮かべる人が多いと思うんだけど、『十四歳のエンゲージ』は恋愛小説ではない。主人公・タエコは中学生の女の子で、不良グループに所属している。ちなみに、CAROLやCOOLSといったバンド名が出てくるから、舞台は70年代か80年代だろうか。不良グループに属しているといっても、タエコは全く不良になりきれていない。もともとはごく普通のあたたかい家庭で育ってきた「いい子」なのだけど、周囲の普通の女の子たちと群れるのが嫌で、大人に見える不良たちに憧れて、グループに入ったのだ。けれど、普通の女の子たちともうまく馴染めないタエコが、不良グループでうまく立ち回れるはずもなく、結局グループ内でも浮いてしまう。この、いい子コンプレックスで人の輪の中に入るのが苦手なところが自分を見ているようで、私はどっぷり感情移入してしまったのだった。

タエコが不良グループに入った理由はもう一つあって、ルーという少女がそこにいたからだ。ルーはシンナーやってるような筋金入りの不良なんだけど、学校では明るく活発で、不良・一般生徒問わず友達がいる。けれど、家庭は荒んでいて、家には親がほとんど帰ってこず、孤独でふさぎこんでいる。そんなルーを救いたいとタエコは思うのだけど、14歳の自分には何もできないことを知っている。ルーはいつもタエコの気持ちを明るくしてくれるのに、自分はルーがふさぎこんでいるとき、そんなふうに気持ちを軽くしてあげることができない。タエコは、一方的にルーに依存しているような自分とルーの関係をなさけなく思う。

不良グループどうしの抗争やヤクザとの関係の中で、ルーはタエコの知らないうちにどんどん痛めつけられていく。タエコは結局そんなルーを救うことができずに物語は終わる。この本を読んでいると、タエコのルーへの思いが自分にも染みとおってくるようで、ルーというシンナー中毒の不良少女が、温かい光に包まれた神聖なもののように思えてくるから不思議だ。