緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

嵐。仕事。まだしていない婚活。

お題「#この1年の変化」

 

 1年より少し前、2019年の終わり頃に嵐の公式Youtubeが開設されて、初めて嵐のA・RA・SHIをMV付で初めから終わりまで聴いたことをきっかけに、私は嵐にハマった。そして2020年正月には嵐関連の番組を録画しまくっていた。再放送の嵐主演ドラマ「最後の約束」は、つっこみどころはあれど終わり方がかっこよくてなかなか楽しめた。この頃はまだ2020年がこんな年になるとは思ってもいなかった。 

 2020年2月初めくらいに、うすうすわかっていた4月からの異動がやっと正式に決定し、そこから本格的に家探しや手続きや引っ越しの準備を始めなくてはならなかった。この頃、新型コロナウイルス肺炎の報道を徐々に見かけるようになり、職場でも発熱患者には必ず渡航歴を聞き、疑いがあれば保健所に連絡するという対応がなされるようになった。そしてこの頃から「自粛」という言葉が聞かれるようになった。私のように異動する人の送別会も行わないことになった。この頃は非常に微妙な時期で、2月開催の大型イベントなどは日程や地域によって、ぎりぎり行われたものもあれば、中止されたものもあったと思う。3月になると、医療従事者の送別会や大学生の卒業旅行での感染がマスコミに取りざたされるなどもあった。

 年度末に休みをとり、引っ越しをした。異動先は実家に近かったのが幸いで、引っ越し先の家が片付いていない間、実家でごはんを食べ泊まることができた(この頃は帰省での感染の危険性はまだそこまで言われていなかった)。ちょうどそのときに志村けんさんの死を知って呆然とした。3月終わりから4月にかけての自分の気持ちや世間の何ともいえない漠然とした暗さは、これまでに経験のしたことがない種類のものだったと思う。COVID-19は、肉眼では見えないが世界中の人々の命をおびやかしてくる。そして感染のリスクを減らすためには、著しく行動が制限される。人類史のなかで感染症に世界が脅かされたことは何度もあったのだろうが、自分が生きているこの時代に、こんなウイルスが新しく出現したことが衝撃だった。生活のちょっとした行動でも、どこまで感染予防をするかという問題がつきまとい、少しでも油断をすると「感染したかもしれない」と不安になる。あれから1年たった2021年の現在こそ、行動様式が自分のなかで定まってきたが、このやり方だって感染していないのは単に運がいいからで、地域的に今以上に流行したらどんなに気をつけていても感染するのかもしれない。

 そんな状況で新しい職場で新年度を迎えた。共に働く上司や後輩はもともと知り合いで話しやすい人たちで、人間関係の不安はなかった。仕事内容自体も、前の職場のほうが責任が重くしんどい思いをしていたので、むしろ気は楽になったくらいだった。困ることと言えばローカルルールにまだ慣れていないということくらい。けれども、そういった仕事上の大きな問題がないからこそ余計にコロナに対する漠然とした不安がつきまとい、4月に入ってからも何だかぼんやりして無気力だった。体調が悪いと、「コロナだったらどうしよう」などと考えてしまうし、いろんなことが頑張っても意味がないことのような気がした。そんななかで、音楽活動をする人たちが、リモートで音楽を届けようと必死にがんばってくれていたことには心を動かされた。

 仕事をするうちに、いよいよ自分の住んでいる地域でもコロナの感染者は増えていき、自分の業務もコロナと無関係ではいられなくなった。まだ一度も直にコロナ感染者と接したことはないけれど、発熱患者さんにPCRまたは抗原検査のための検体採取を行うことはあるし、COVID-19そのものの診療はしていないけれど、コロナ患者さんの持病が自分の専門分野だった場合に相談を受けることはある。

 これまではあまり他の専門分野の医療者のネットでの発信を読むことはなかったのだけど、コロナ診療最前線の医療者のネットでの発言などをちょくちょく追うようになった。政治の動向や世間のさまざまな意見に気持ちを左右されるようにもなった。家に帰ってからはそういうネット記事を読んでいろいろと思いを抱きながら、職場ではいつもどおり仕事をするという2020年だった。

 

 それ以外のこととしては、主に嵐の活動休止前最後の一年を追いかける2020年だった。このことは以前ブログにも書いたけど、コロナ禍のなかでさまざまな決断をし、世の中の状況に合わせてYoutubeでの紙芝居、ワクワク学校オンライン、インスタライブなどさまざまなコンテンツを提供してくれて、2つの大きな無観客ライブを成し遂げるなど、予想もしていない状況のなかで最大限に考え力を尽くしてくれた嵐の仕事ぶりに尊敬の念をいだいた。何より常にファン(そして、もっと広く世の中の人々)がどんな気持ちでいるかを思いやり自分たちが何をできるか真剣に考えてくれる彼らの人間性に心をうたれた。にわかファンではあるけれど、この一年で彼らのことをよく知ることが出来て本当によかったと思う。

 

 そして最後に自分のことだけれど、上に書いたようにさまざまに考えさせられることはあったものの、自分の生活のしかた自体はまったく変わっていない。とにかくやらねばならない仕事はやるけど、それ以上の勉強はあまりできていないし、家に帰ってからは最低限の家事をしてネットや本を眺めて1日が終わる。これでいいのか…とずっと思っている。前職場では仕事は内容的にも量的にもややキャパ越えだった。自分のできる範囲でがんばったつもりではあるけど、キャパを拡げようと努力することもできず、いろいろと後悔するところもある。そして現職場での仕事は、難易度的にも量的にもまぁまぁちょうどいいくらいで、何というかそれに甘んじてしまっている。これから年を取るにつれて、より知識や判断力やコミュニケーション力が必要とされる立場になるかもしれないのに。

 いま、本当に目の前の最低限のことをしていて、これからの人生をどうするかという目標がみえない。ひとつはやはり、勉強はしないといけないなと思う。でないと、仕事を続けるうえで不安や自信のなさが降り積もるだけだから。

 あともう一つはプライベートについて。ちょうど1年と少し前、嵐にハマって間もない頃、私は嵐のメンバーの一人にガチ恋に近い気持ちを一時的に抱いてしまった。これは一時的なものでおさまったのだけど、このとき私は嵐が活動休止してしまったら空っぽな状態で年だけとっていくのではないかと危惧した。そのとき思いついたのが、そうだ、婚活しよう、だった。けれど、調べてみると当然だがやはりそれなりの高額な入会料を払わないといけないことがわかり、逡巡してそれ以上の行動は起こせずに終わった。そして今年の自分の誕生日前に、婚活の相場からいえばもう十分遅いとはいえこれ以上延ばしたら年齢的にさらに厳しいと思い立ち、ある結婚相談所の説明をオンライン通話で聞いた。このとき話を聞いた仲人さんの仕事ぶりや人柄は信頼できると感じたのだが、いったん入会したらかなり精力的にラインなどのやりとりを頑張らねばならず短期間の勝負であるということを聞き、また、お見合いの最終段階では仲人立会いのうえで相手と実際に会うことになるのだが、現在のコロナ流行下ではリスクがあるため(職場での規程もあるし)、今の段階で婚活を始めるのは難しいと感じた。もちろん、相手や状況次第では相談してやり方を変えられる可能性もあるし、始めてみないことには何も進まないとわかってはいるのだけれど。そうやっていろいろ考えているうちに婚活はしないまま2020年は終わってしまった。

 

 2021年に入り、いよいよもうすぐ新型コロナのワクチンを打つことになる。考えてみれば、コロナが出現してからmRNAワクチンという新しいタイプのワクチンが開発されたなんてすごいことだ。そのために日夜開発に取り組んだ人がいるのだと思うと頭が下がる。もちろん、そんな偉業をなしとげた人とは比べるべくもないけれど、仕事のことでもいい、プライベートのことでもいいから、今何をすべきか考えて一歩進めればと思う。

脳内不良少年の恋

今週のお題「告白します」

 

告白します。といっても、以前にもこのブログでちょろっと書いたことある気がする。

20年以上、なんとなく私の頭の中にだけ存在する高校生カップル(ふたりの出会い自体は中学3年生のとき、という設定)がいる。一馬くん(仮)と真弓ちゃん(仮)だ。

 

私が中3か高1くらいのときにこの子たちのことを生み出して、カレカノ(『彼氏彼女の事情』)の影響を受けたりもしていると思う。ちなみにカレカノにも一馬というキャラが出てくるけど、これはたまたまかぶったんだったと思う。だいたいフィクションにおいて「一馬」というとこういうイメージのキャラなのだ。

それで、この二人のことをただ妄想する分にはいくらでもできるのだが、ちゃんと物語として書こうとするとすぐ行き詰まってしまう。なんといってもふるっているのは一馬が不良だという設定で、不良ってあなたいまどきそういう呼称あるの、と自分でもつっこんでしまう。これのせいで、きちんとした物語にしようとすると困り果てる。なんだかやはり、不良同士の喧嘩とはいえ暴力ふるってた少年が改心して普通の生徒になったからといって、感じのいい女の子と仲良くなるなんて許されていいのかという気がするのだ。冒頭の喧嘩描写をきちんとしようとすればするほど、人にケガさせてしまった男をこのまま真弓と仲良くさせるのか?いくら本人は苦しんでいたとしても、読者が納得するか?と、いもしない読者を想定して悩む。

だからといって、一馬の不良設定をなくしてしまうともはやそれは私がずっとあたためてきた二人ではなくなってしまう。

 

何だろう。赤毛のアンでも、ダイアナがちょっと悪い男と恋をして改心させるのがロマンチックという話をしていたけど(子供の頃そういう想像をアンと二人で楽しんでいたのに大人になってダイアナが結婚したのはフレッドという普通にいい人だったのでアンはショックを受けたのだった)、不良設定が好きなのもそういう心理なのだろうか。やはりこういう物語が好きなのか?

式子内親王の歌 うたたねと夢

新古今和歌集をぱらぱら眺めているうちに式子内親王の歌が私の好みだということに気がついた。「うたたね」とか「夢」という言葉が出てくる歌が多い。安直かもしれないけど、式子内親王うたた寝という行為が好きだったんじゃないかと勝手に親近感を抱いている。うたた寝したり、目が覚めてもしばらく枕に頭をあずけてぼーっと物思いにふける時間、私は好きだし、式子内親王もそのような時間を意識している人だったんじゃないかと思う。

式子内親王への興味が強くなり、とうとう関連する書籍をいくつか買った。その一つが竹西寛子さんの『式子内親王・永福門院』という著作。これを読んでいるとまさに私の好きな式子内親王そのものという歌が出てきた。

 

 見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中

 

これは現存する式子内親王の三つの百首歌のなかではもっとも早い時期に成立したと思われる『前小斎院御百首』に入っているとのこと。つまり比較的若い頃の作品と思われる。竹西寛子さんはこの歌を好み、著作の初めにこれを取り上げておられるのだけど、その嗜好、感性に私も共感する。

こんなに端的に、人生の来し方行く末に対する漠然とした不安、とまどい、不思議さ、それらがないまぜになった気持ちを表現したものがあっただろうか。本当にそうなんだよね、と、この歌を見るとしみじみと思う。未来の自分なんて想像もつかないし不思議な感じがするのだけど、同じくらい、過去にいた自分もそのときにあった世界も、本当に存在したんだろうかと不思議で信じがたい、まぼろしのようなもの。そして過去の自分も未来の自分も現在の自分とつながっているということが、ごく当たり前なのに不思議すぎる。

これを無常観とも言い表せるかもしれないけど、あまり達観した感じではなく「何か不思議だよね」という感覚をダイレクトに伝えている気がする。それこそ、こうやって個人の日記に書いてあるような感じで。でも、ただの散文なら、さらっと書けるけど、それを歌として美しく仕上げてるのだから、すごい技術だよね。この完成された歌を見るとさらりと詠まれているようにみえるけど。

 

ほかにも式子内親王の歌をいくつか読むと、やはり夢というものの不思議さに魅入られていたように思える。いくつかそのような歌を並べてみる。

 

 かへりこぬ昔を今と思ひねの夢の枕に匂ふ橘

 

 夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね

 

 束の間の闇の現もまだ知らぬ夢より夢に迷ひぬるかな

 

 始めなき夢を夢とも知らずしてこの終にや覚め果てぬべき

 

夢の不思議なところは、見ている間は夢だと気づかないところ。だからこそ、夢と現は入り混じる。そんな歌をいくつも詠まれている。言葉の響きも、その物の感じ方自体も美しくて、読んでいて心地よい。そんな式子内親王の歌にとても惹かれている。