もう何年も前にこの本を買って、電車通勤していた頃は鞄に持ち歩いて繰り返し読んだ。季節のうつろいを昔の詩歌とともに味わうエッセイなのだが、それだけではこの本の内容を伝えきれていない。ときに作者の心境やその時代への思いが書かれることもあるが、それほど詳細に書かれるわけではない。にもかかわらず、芯の思いが伝わってくる、時代の雰囲気が伝わってくる文章である。
どうしても、竹西さんの文章の魅力を私の文章で伝えることは難しいので、『いつよりの秋』という章から少し本文を引用する。
この章では、慈円の歌をひいている。
み山路やいつより秋の色ならん見ざりし雲の夕暮れの空
以下、この章の文章をいくつか引用する。
“その秋の若狭街道は、(中略)光がみちあふれているようであった。空の深さと薄の穂波の眩しさを未だに忘れることができない。”
“長いあいだ心を傾けていた歌人の生地を訪ね、朝といわず夕べといわず湾の岸に立って潮の音を聞き、(中略)飽きもせず往き来してきたというのに、ある念願を果すことで加わった予期せぬ心の重さに、私はとまどっていた。”
“見えてきたものが、まだ見えていないものの量をぐっと増した。心の重さは、新たに抱え込んだ不明の重さであったかもしれぬ。”
“秋の空を初めて仰いだわけではない。(中略)それなのに空はかつて感じたことのない澄んだかなしさで、(中略)。この時、私は、自分の中で何かが確実に変わったことを知らされた。”
“ふと気づいてみれば、あの夕べの雲はもう夏の雲ではない。山路にはいつから秋が訪れているのであろう。”
“私は慈円のこの歌が好きである。あれはもう夏の雲ではない、という秋の認識は、季を離れても通用する事物の変化の認識であり、そのようにしか認識できない変化に、彼我の世を見る思いもある。まことにいつからわれの――。不明にみちたこの身ではある。”
どうやったらこんなにも、自分の淡い物思いを掬いとるような文章が書けるのだろう。慈円の歌自体がまずすばらしい。「あれはもう夏の雲ではない」という感覚は、現代を生きる私たちにも理解できる感覚で、それを“いつより秋の色ならん”と、すっと詠めてしまう巧みさ。
そして竹西さんが語る、ある好きな歌人の生地を訪れて、十分その地を味わい手ごたえもあったのに、なぜか心の重さを感じたこと、空がこれまでと異なって見え、自分の中の変化に気づいたというできごと。傍目にはみえない、自分にしかわからない変化というものがあり、読者である自分にもいつかどこかでそう感じた瞬間があることを気づかされる。
慈円の歌と竹西さんの文章が二重に響き合って、人の心の不思議に感じ入ってしまう。
新聞に毎月一回、昭和63年から平成6年まで連載されたということで、一章(連載一回分)は文庫で2~3ページととても短い。その短い中に詩歌のよさと、竹西さんの文章の味わいが詰まっている。