緋綸子の雑記帳

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『鬼の研究』(馬場あき子)を読んでいる

今週のお題「最近読んでるもの」


 馬場あき子さんの『鬼の研究』という本を読んでいる。今の私たちが思い浮かべる"鬼"のイメージはどのように形成されてきたのか。昔の文献の"鬼"の登場するエピソードが興味深く、どこかいとおしくて心惹かれる。
 仕事の行き帰りの電車などで数ページずつゆっくりペースで読んでおり、今やっと半分を過ぎたところ。鬼にまつわるエピソードと、そこから導き出される著者の考察が書かれていて、ずっと面白い。昔の説話は、なぜこんなに読んでいるだけで面白いのだろう。

 これを買ったきっかけは、本屋でタイトルと著者を見て、あの歌人の馬場あき子さんがこの本を!?と驚いたことと、そのとき鬼滅の刃の能に当選していたので、その予習にもなると思ったから。ぱらぱら見ると、この本には鬼やそれに類する存在の登場する謡曲の話も出てきており、鬼と能には深い関係があるようで、それを知りたいと思ったのだ。

 序章で、鬼の系譜の分類を著者は以下のように述べている。
(1) 日本民俗学上の鬼(祝福にくる祖霊や地霊)。最古の原像。
(2) (1)の系譜に連なる山人系の人びとが道教や仏教を取り入れて修験道を創成したとき、組織的にも巨大な発達をとげてゆく山伏系の鬼。天狗など。
(3) 仏教系の邪鬼、夜叉、羅刹、地獄卒、牛頭、馬頭鬼。
(4) 人鬼系。放逐者、賤民、盗賊など、それぞれの人生体験の後にみずから鬼となった者。
(5) 変身譚系。怨恨・憤怒・雪辱などの情念をエネルギーとして復讐をとげるために鬼となることをえらんだもの。

 これらの系譜を古代から文献をもとにたどり、鬼の描かれ方をとおしてその時代の人びとを見つめている。中央集権体制の確立のため、衰亡していった先住土着民(土蜘蛛と呼ばれた)。藤原一門のごく一部の繁栄のため抑圧されて社会から放逐されたものたち。
 著者が次々と挙げる歴史書や説話集のエピソードを読むと、鬼や怪異のそれぞれの出自も興味深いし、彼ら、彼女らが起こす人智を超えた行動や残虐な凶行もどこか魅力的だ。これらの物語を生み出し、享受した当時の人びとの感情にも、恐れや不安のみならず、鬼の側への共感も混じっていたのではないかと著者は述べている。


 終章「鬼は滅びたか」(まだ全文読み終わってないけど、先に読んだ)を読むと、著者は幼い頃には鬼や妖怪を異常なほど恐れていたが、古典に親しむほどの年齢に達して恐怖が関心へと逆転し、ついに鬼に愛着をもつようになったそうだ。そのきっかけは、『伊勢物語』の「業平の女を喰った鬼の話」の末尾の一文だった。

「それをかく鬼とはいふなりけり」と記された一文に出遭った時、もはや二十歳をはるかにすぎていたはずの私は、はじめてほっと吐息をついたものである。「それをかく鬼とはいふなりけり」という含みのある文体の中に、鬼とはやはり人なのであり、さまざまの理由から<鬼>と仮によばれたにすぎない秘密が隠されているのを感じたからである。その秘密を知ることが、その後の私と鬼との交渉をきわめて親しいものにし、ついには自分もまた鬼であるかもしれないと思うようになっていった。

 「鬼は人」という考えは、『鬼滅の刃』にも通じるもので、終章のタイトルとあいまって、鬼滅ファンとしては何だかぐっときてしまう。『鬼滅の刃』も人が鬼となるまでの過程を丁寧に描く物語だった。
 『鬼滅の刃』を読むまで、鬼は昔話に出てくるようなどこか現実感のない、子供向けのキャラクターのようなイメージであった。その"鬼"を、あれほど実感を伴って恐ろしく、憎く、哀しい存在に描き上げることができたのは、この『鬼の研究』に書かれているような思想を『鬼滅の刃』も奥底にもっていたからではないかと思った。吾峠先生がこの本を読まれたかどうかはわからないけれど。


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