緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

明恵上人のゆかりの地、和歌山の湯浅町に行ってきた

 

旅行にいくまで

 

 2016年、九州国立博物館鳥獣戯画が展示される『高山寺明恵上人』という特別展を見に行ったことがある。目当ては鳥獣戯画だったのだが、高山寺明恵上人に関する展示がすごく充実していて面白かった。夢日記をつけていたり、お釈迦様を慕ってインドに行きたすぎて旅程表を作成していたり(結局、インドには行けないのだが)。それで明恵上人にすっかりハマってしまい、白洲正子の『明恵上人』というエッセイも読んで、ますます好きになった。何よりこの本を読むと、明恵上人の生まれ故郷で生涯の多くの時を過ごした土地でもある紀州に行きたくなった。そんな気持ちを長年抱えていて、とうとう、この夏、和歌山県は有田郡、湯浅町に行ってきた。

 

 まず下調べをしたのだが、全国的な観光地でもないのであまり情報がなかった。白洲正子の『明恵上人』を参考にしながらグーグルマップやわずかにあるネット上、SNS上の個人の記録からどうやって行けばよいかを調べる。

 それは施無畏寺というお寺でした。湯浅の町はずれから、岬を一つ廻ったところの、栖原という漁村の山の中腹にあるのですが、(中略)小型の車がようやく通える程度の山道で、

 

 この施無畏寺というところには、地図を見て何とか和歌山駅から車で行けそうだとあたりをつけた。今回の旅行では同行者がいて、その人がレンタカーを運転してくれることになった。

 しかし問題は施無畏寺からさらに上った白上山の頂にある白上遺跡である。明恵上人が庵を結んで修業したところで、現在は卒塔婆があるのみらしい。白洲正子の『明恵上人』を読んでいても、ネットで登山者の写真などを見ても、車で行けるかわからない。歩いて上るとして、登山し慣れていない私たちが安全に登れるかわからない。高さや距離はそれほどないのだが、山道の状態にもよるだろう。私は同行者に「施無畏寺までは行けると思うけど、そこから先はわからない。無理は決してしないでおこう」と話した。同行者はそれほどピンときていないようだった。今回の和歌山行きは私の希望で、同行者は特に明恵上人に関心があるわけではない。それで元来こういうことを得意でない私がメインで調べていたのだけど、どうも嫌な予感がしていた。この予感はのちのち的中することになる。一応ヤマレコという登山者用のアプリをダウンロードするなど準備した。

 

 

施無畏寺

 新大阪まで新幹線に乗り、そこから特急"くろしお"で和歌山駅へ行った。和歌山駅からレンタカーで途中高速に乗って有田へ。施無畏寺へ向かう少し手前で橋を渡り海辺の街となる。ここまでは順調だったが、そこから海岸沿いに出ると、道が狭いうえに海の側にガードレールも何もなく、一歩間違えたら海に落ちそうな道路であった。そして施無畏寺へ行くには、そこから急峻な脇道を登らなければならない。その脇道を見て私は「む、無理しないで。引き返してもいいよ」と言った。が、同行者は「大丈夫だよ。とりあえず行ってみよう」と言う。同行者は普段から安全で落ち着いた運転をする人で、スピードを出したりするタイプではないが、どんな道にもある程度対応できるという自信はある人だ。そのまま施無畏寺へと上り、駐車場と名は付いているが、要は道路の脇の坂道(駐車場自体が強い傾斜となっている)に車を停めた。

 

 施無畏寺からの眺めは、白洲正子のエッセイにもあるとおりの絶景であった。深い青の海があり、それぞれユニークな形をした島がいくつもその姿をのぞかせている。

 

施無畏寺からの眺め

施無畏寺からの眺め

 

施無畏寺

 

 明恵上人も、そして白洲正子も見たであろう、この施無畏寺からの海と島の風景を見られたことに私は感極まった。この風景を見られたのであれば、はるばるこの地へ来た甲斐があったと思った。

 

 

白上遺跡へ…?(車は危険!)

 

 同行者も施無畏寺からの眺めに一緒に感歎していた。そして、駐車場の車に戻った。これからどうするか話し合う。施無畏寺からの道から考えて、この先はさらに車での通行は難しいことが予想された。「もうこれで引き返してもいいよ」と私は言ったが、同行者は「せっかくだから行ってみようよ」と言う。「なら、歩いて行ってみる?」と私は提案した。目的地の山頂までは2㎞くらい、歩いて30分くらいとある。といっても、かなり急な山道だ。この猛暑もあり、かなりきついかもしれない。同行者は「いや山道を2kmって結構あるよ。車で行けるところまで行ってみよう。だめなら引き返せばいいから」と言うのでそのまま車で進んだ。

 そうして車で施無畏寺から先に進むと、ほどなく分かれ道があり、左を行けば遺跡の案内表示があったが、その道は舗装もされていない完全な山道だった。そのため、とりあえず車は右の舗装された道を進んだ。ずっと道幅は狭いままで、進むしかないのだ。そしてしばらく行ったところで、これまでで最も恐ろしい場所にさしかかった。車一台分の道幅で、片側はガードレールもなくそこから先は崖。運転席から外に出て数歩歩けば滑落する。ここで車を停めた。先に道は続いており、同行者が下りて先を確認したが、これ以上進んだところで状況が好転するとはかぎらず、引き返すことになった。

 引き返す…?この片側は崖の狭い道を、どうやって…?私は命の危険を感じた。一歩間違えば、車ごと落ちて死んでしまうかもしれない。私は言った。

「自分でどうにかしようとしないで。本当に危ないから。ここで車を降りて助けを呼ぼう」

「助けを呼ぶって…。JAFを呼ぶの?でも呼んでも時間かかるし、呼んでもやることは同じだと思うよ」

 助けを呼ぶのに、そんな実際的な考えは必要ないと私は思う。今この場で自分でどうにかしようとして、誤って落ちて死んでしまうことが避けられれば。助けを呼べば、相手だってそれなりの準備で来てくれるはずだ。地元の人で、あの山道だと認識できれば、同行者よりは慣れているかもしれない。しかし、同行者は自分でなんとかすると言った。

 私は本当の本当は、同行者が自分で運転してどうにかすると言うのなら、私だけでも車から下ろしてほしかった。そう申し出てくれないかとすら思った。だが、たぶん同行者はそれを思いつかなかったのだろう。さすがに自分だけ降りると主張する勇気は私にはなかった。何度も止めたとはいえ、施無畏寺と白上遺跡に来たがったのは私だ。私はこれ以上は騒がず、祈りながら車に乗っているしかなかった。

 同行者は車を降りて元来た道を歩いて引き返し、なんとか車を切り返せる場所を見つけた。その場所までは慎重に慎重にバックする。そして、細かく切り返して、なんとか元来た道を引き返すことができた。二人ともしばらく緊張が解けず、施無畏寺を素通りしてそのまま山をくだり、町まで来てやっと一息をついた。

 私は自分の運転技術がつたないため、車で行けないところは当然あると思っている。しかし、同行者はなまじ運転が得意で場数も踏んでいるので、道路があるなら行けるのではと思ってしまうようだ。霧島の奥の急な山道もなんとか運転できていたから、同様に何とか行けると思ったのだろう。しかし、霧島は観光地だし、ドライブウェイである(いやそれにしてはかなり狭い急峻な道もあるが)。一方この施無畏寺周辺はなんというか、この土地以外の人の車が通ることを想定していないし、安全性などもあまり考えられていない。道はあっても命の保証はない、そういう道もあるのだ。

 コミュニケーションの難しさも痛感した。白洲正子のエッセイや、ネットで調べた雰囲気から感じた「どうも車は危ないのでは?」という予感を私はうまく伝えられなかった。同行者、というかお付き合いしている人なのだが、彼はどうも私の発言を"遠慮"ととらえがちであり、それで逆に頑張ろうとしてしまうようだ。そもそも私の言い方もまぎらわしいのだ。「行かなくていい」「引き返してもいい」と言っていたから。そうではなく、「命の危険があるかもしれないから、そこまでして行きたくない」ともっとはっきり伝えるべきだった。

 

醤油発祥の地 湯浅

 

 湯浅の町に下りてきた私たちは、施無畏寺に来る途中の古い建物と醤油発祥の地という看板が気になっていたので、そこを観光することにした。

 

湯浅醤油の角長(お土産店)

 

 この周辺は醤油資料館(実際に使用されていた道具や機械の展示がかなり充実している)や醤油のお土産屋、それ以外にも休憩する甘味処などあり、建物も古く歩いて回って楽しかった。白上山での緊張がやっとほぐれた気がした。

 

春日竜神お能

 湯浅の町で偶然、このポスターを見つけた。

 

 

 白洲正子のエッセイの冒頭にも載っていた春日龍神お能。なんと生誕八百五十周年とのことで施無畏寺で行われるらしい。こんな体験滅多にできないだろう。応募の期限にもこの時点ではぎりぎり間に合っていた。何という巡り合わせ。さっそく甘見処でスマホで応募した。今日ここへ来てよかったと思った。

 

 いろいろあったが、この街へ来ることができてよかったと思う。施無畏寺からの眺めの写真は宝物だ。これをよすが明恵上人を思おうと、iPhoneの壁紙にした。お能を見に行くのが楽しみである。