緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

『かぐや姫の物語』を見た

先週、高畑勲展に行ってきた。高畑勲の作品のことはあまり知らないのだけど、宮崎駿、富野、庵野などが作るアニメを好きな者としては高畑勲についても知っておきたいという気持ちがあった。高畑勲展に行く前にまず見ておいた方がよいだろうと『かぐや姫の物語』のDVDを買って見た。

かぐや姫の物語』、線を主体とした絵がものすごく美しくて、なんかもう名人芸といってもいいようなアニメーションだった。冒頭の、妖精のようなかぐや姫の幻、赤ちゃんの姿となりころころしている姫、成長していくたけのこ(姫のあだ名)…丸っこい描線がこの上ない愛らしさを生み出している。

たけのこは近所の子供たちと自然のなかで育つのだけど、そのなかでお兄ちゃん格の捨丸は、登場時からいきなりたけのこを猪から守るし、よく知らずに危ないことをしでかすたけのこを事あるごとに体をはって守る。アシタカを思い出させる精悍な顔つきの少年。たけのこと捨丸いい感じじゃん!と見ている私もときめくけど、別れがくることはわかっているのでつらい。捨丸兄ちゃぁん……という気持ちになる。

翁の発案により山の生活を捨て、捨丸たちとも離れ離れとなり都に移り住むのだけど、初めは大きなお屋敷やきれいな着物(自分を着飾るものとは思ってなくて遊び道具みたいにしている)ではしゃいでいたたけのこは、相模という家庭教師的な女性に貴族の女性としての窮屈な教育を施され、元の山での生活に戻りたいと思うようになる。ここで連想するのは……そう、アルプスの少女ハイジ高畑勲は、孤高のかぐや姫の背景を、単に“月から来た人”ではなく、このように想像したのだなと興味深い。山での生活を知っていてあれこそが“生きる”ことだと感じているかぐや姫には、貴族の生活は虚飾にしか見えないのだ。自然のなかで生きる力があり、生き物を愛する人間というのは、高畑勲の理想であり原点なのだろう。ただ、それはわかるのだけど、自然とともに生きる山の世界、虚飾に人々が踊らされる都の世界、そしてあらゆる感情を持つことのない月の世界、3つの世界が出てくると、テーマがわかりにくくなるのでは?という気もした。山の生活と都の生活、または人間世界と月の世界、という対立構造の方がわかりやすいような。

そして、ハイジのように山に帰りたがり、屋敷の裏の小さな庭を故郷の山にみたてて心をなぐさめる姫だけど(このあたり、かか様(媼)は姫の山への恋しさの理解者なので二人だけのシーンはほっとする)、生理がきてしまったため名付けの儀式が行われる。名付け、“なよ竹のかぐや姫”という名前自体はとても素晴らしくて(1000年以上前の原作どおりだけどすごいセンスだと思う)、さすが名付けに呼ばれるだけあるよ、秋田のじいさんやるじゃん!と思うけど、こう名付けられた瞬間、“たけのこ”ではなくなり、なよ竹のかぐや姫として成人の儀式をおとなしく受け入れる姫の表情は見ていて悲しい。山のことを言わなくなったハイジみたいで心配になる。

そうして名付けの宴が開かれ、貴公子たちが大勢招かれての騒々しい酒宴となるのだけど、かぐや姫は御簾に隠されて女童と二人ぽつんといるだけ。そのうち、客の一人が姫の姿を見たいと言い出し、それを止める翁に対して姫や翁を侮辱するような発言をする。それを聞いたかぐや姫は怒りのあまり手に持っていた貝の器を割り、武者のような表情となってその場から鬼神の速さで駆け出し、衣を脱ぎ捨てながら野山をかけていく。この場面の、見るものの心を押しつぶすような感情表現は圧巻だった。この作品でもっとも見どころかもしれない。たぶん、『かぐや姫の物語』の制作ドキュメンタリーなんかでこの場面見ているのだけど、武者みたいな濃い顔だったからかぐや姫だとは思わなかった。そうして行きついた山で地に横たわるかぐや姫…というところで元の御簾の中にいることに気づく。この場面はショックだった。夢(?)だったなんて。本当に怒りのまま逃げ出してしまえればよかったのに。

 

以降の場面は、文章として感想を書いていくの大変なので箇条書きで書きます(逃げ)。

・名付けの爺さんがかぐや姫のことを聞き出したい貴族たちに囲まれてるところで次のシーンに移るんだけど、画面に名付けのじいさんの顔だけ残して車輪をオーバーラップさせて次のシーンに移るという謎のギャグみたいな技法を使っていて、何?いまの…となった。じいさんの顔残して車輪とかぶせないでくれ。

・家庭教師的存在の相模さん、姫にいろいろ教育したけど姫が求婚全部断るし、お役に立てないといって去ってしまう。姫とは分かり合えないけどいい人だったな…。

・姫が牛車に乗っているとき、鶏どろぼうをして逃げる捨丸と遭遇するシーンはつらかった。牛車に乗る姫と、捕まえられて殴られる捨丸という対比。これは後からわかるのだけど、姫がショックを受けていたのはこんな状況で会ってしまったことと、自分のせいで足を止めた捨丸が殴られるのが辛かったからで、盗みをしていたことに対しては姫は特に気にしていなかったの、よかった(それも“生きる”こと!というのが姫の考え)。

・五人の貴公子編、石作皇子の話は原作から少し変えられていたりとバリエーションがあって面白かった。この映画ではこの人だけは宝物を本物だと言い張るのではなく、姫を口説くことで彼女を手に入れようとして、姫もちょっとだまされそうになってたの面白かった。実は北の方もいる浮気男だったというオチ。

・大伴大納言龍の頸の玉を獲りに筑紫の海に出たんだけど(ほらー、この時代から九州はこんな扱い…)、嵐と龍におびえる大伴を世話する船乗りの男が渋くてかっこよかった。

・燕の子安貝を取ろうとした石上中納言は腰の骨を折り、死亡。気の毒すぎる。そりゃ、この当時腰の骨折ったら死ぬよな…。これを聞いたかぐや姫、宝物はただ結婚を断りたい一心での口実だったのに、死者まで出してしまったことに、「自分は関わった者を不幸にしてしまう。庭に作った野山も偽物。自分も偽物」と絶望する。つらい。

・そしてアゴが長いことで有名な御門登場。姫の気持ちなどまったく気づかずノー天気に喜ぶ翁に「翁め…」と思う私(というか都に来るところからずっと思っている)。しかし翁は翁で姫を幸せにしたいという一心なので哀れだ。

・翁の屋敷を訪問し、かぐや姫のところへ忍んだ御門は彼女を背後から抱きすくめ、かぐや姫も見ている私も「ひぃぃ」となる。まったく知りもしない人間にこのようなことをされた瞬間の本当に本当に心から嫌だ、という感覚をはっきり表現してくれてありがとう…という気持ち。

・あまりのことにかぐや姫、御門の前で一瞬姿を消す。これ、原作どおりなんですよね。原作では「きと影になりぬ」と表現されている。私が昔読んだ子供向けのかぐや姫ではこの場面、省略されていた気がするけど、このタイミングでファンタジー要素入れてくるのすごく好き。

・そして、かぐや姫はとうとう月に帰らなければならないことを翁と媼に打ち明ける。この急な展開については、御門のあれが嫌すぎて姫のSOSスイッチ(?)が自動的に入ってしまい、それを月に感知されて迎えが来ることになってしまうという理由付けがなされていて、納得してよいやら笑ってよいやら。

・憤慨し嘆く翁の声の裏返りっぷり。地井さんの熱演。翁は事態の本質もかぐや姫の気持ちもわかってはいないけど、彼なりに姫を思う気持ちは誰よりも強いし、姫にとってはとと様だから憐れだよね。

 ・たけのこと捨丸が空を飛ぶシーン。私は捨丸のことはずっと気になっていて、最初に都を離れるシーンでもう出てこないの??と心配していて、そのあとの鶏盗んでたシーンでは、さすがにここで最後ではないよね?と思ってたので、最後に二人があのような形でひとときでも結ばれる場面が描かれてよかったと思う。妻子がいるのに…という意見もあるようだけど。ただ、空を飛ぶシーンの描写は素晴らしかったのだけど、やっぱりどうしても『千と千尋の神隠し』がちらついてしまうのだった。

・月のお迎えの非現実感。絵も音楽もよかった。絵巻物みたいで。月の曲はこの世のものと思えぬ不思議な明るさと楽しさがある。羽衣をかけると感情をなくしてしまうんだけど、お約束だと少しくらい待ってくれそうなのに、あまり待ってくれず姫にさっと羽衣かけちゃう月の人の問答無用っぷり。軽やかな音楽に乗って、月へと帰っていくかぐや姫と迎えの一行。感情をなくしたかぐや姫の表情。この、原作どおりの、ただただ地上の人間は無力で、月の人とかぐや姫は美しく地上から去ってしまう、さびしさや儚さがありながらカタルシスを感じるラスト。それを最大限に表現したすばらしい終わり方だった。

 

「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーの意味、私はうまく解釈できていない。なにが罪でなにが罰?すでに答えはあるのかもしれないけど、私はしばらくふんわりさせておきたい。