緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

「短編小説の集い2025」 母と薬と私

「短編小説の集い2025」参加要項! - あのにますトライバル

 

【HN】緋綸子(ひりんず)

 

【執筆歴】二次創作を入れたら10年くらい?オリジナルは、習作以外で発表するのは初めてです。

 

【ひとこと自由欄】今回のお話は、ほぼ実録というのが正しくて、創作らしい創作ができなかったのが心残りです。

 

【作品名/字数】母と薬と私(4737字)

 

【本文】

 真智子は内科医として働き始めて長いので、薬を飲み忘れる人は当たり前にいると思っているし、必要な薬をどうしても飲みたくないと拒否する患者もいることを知っている。だが、自分の母がそうだとはまあ、少し予想はしていた。

  真智子が子供の頃、熱を出した時などに処方された粉薬には、平気で飲める味もあれば、嫌いなものもあった。人工的な甘ったるさで妙な後味が残る薬があり、それは特に苦手だった。それから、忘れられないのは市販の黒い丸薬。真智子の母はそれが虫歯に効くと信じて幼い娘の奥歯に詰めたのだった。その日は一晩中、口の中が苦いわ臭いわで口を半開きにし、おまけに歯の痛みはそのままで眠れなかった。

 それに比べたら、錠剤を飲むのは楽勝だと思うのだけど。いま思えば、子供時代は子供というだけで苦行を課されていた。

 

 昼前、勤務先のクリニックで、真智子の白衣のポケットに入れていた私用のスマートフォンが振動した。何度か振動するも出ることができず、ようやく患者の診療が途切れてスマートフォンの画面を見ると、父からメールが来ていた。

「お母さんが骨折した。いま病院に来てる」

 ついに恐れていたことが起きたと思った。母親はここ一年ほど気力と体力が衰えて、ほとんど外出しなくなっていた。検査のために病院に行こうと勧めてもかたくなに断るため、対処ができずにいた。病院に行くとしたら、突然倒れるとかそういう大事に至ってしまったときだ。諦めとともにそう覚悟していたのだ。父に電話をかけると、母は今朝ベッドから立ち上がるときに寝ぼけていて転び、右腕の骨を折ったとのことだった。今日は応急処置をされ帰宅し、1週間後に入院、そして手術ということだった。それを聞いた真智子は、やれ大変だと思った。痛む利き腕をギプスで固定された70代の母に、その2歳年上の父。1週間、二人で生活しなければならない。大丈夫だろうか。真智子は近所に住んでいるので、仕事帰りにとりあえず顔を出すことにした。

「お母さん、大丈夫?」

 迎えに出てくれた困り顔の父と少し話した後、寝室に直行すると、母は疲れた顔で寝椅子に座っていた。右の前腕には太くギプスが巻かれ、その端から覗いている指先は赤紫の痣でまだらに染まっており、痛々しい。

「うん、まあ痛いよ」

 疲れてはいるが、それなりにハリのある声で答えた。気丈な人なのだ。部屋着を着たまま、ギプスが巻かれている。考えてみれば応急処置なので、そのままギブスを巻くのも致し方ないのだろうが、これでは着替えも困難だ。母はボタンのない長袖シャツを着ていた。

「これ、着替えどうするの?」

「どうもこうもできんよ。動かしたり濡らしたりしたら絶対ダメって言われたから」

「そうは言っても、一週間着替えん訳にもいかんでしょ」

「それはもう我慢するしかないよ。もう、なるようになるよ」

「入院の時は、前開きの病衣とかあるんだけどね」

「ああ、入院の時の服はあるとありがたいね」

「うん。でも、入院までどうするの?何か着れそうな服とかないの?何か買ってこようか?」

「入院するとき外に出るからちょっと羽織るものが欲しいね。こんな感じの。これはあそこで買ったんだけど」

 畳んである、よそゆきのカーディガンを触りながら、デパートのブティックの名を母は挙げた。

「いや、それはそんなに必要ないでしょ。いま着替えるものの話だよ」

 話していても埒が明かないので、何か適当に見てくるよと言って、実家を後にした。

 さっそく、翌日の仕事帰りに母が入院する予定の病院の院内コンビニで病衣を買い、そのあと、駅前の大型商業施設の衣料品売り場にも足を運んだ。袖のゆったりしたスモックのようなスナップボタン付きの前開きトップスがあったので、それを買ってみた。これならギプスがとれてからも、普段着に使えそうだ。

 実家に寄ると、父が待ちかまえたように出迎えてくれた。昨日の衣服のままの母に、買ってきた服を見せると、スモックを一目見た彼女は言い放った。

「なんか、色が地味やね。作業着みたい」

「無印のだから、デザインはそんなもんだよ。いいから着てみて」

 真智子は母の腕に袖を通そうとするも、ギプスは予想以上に太く、入りそうになかった。

「なんかこれ、作業着みたいよ。お父さんに着せたらいいよ」

 母はふざけたように笑いながら言う。人が買ってきたもの、貰い物などが気にいらないとき、父に押しつけるようなことを言うのは昔から母の口癖だ。本人は冗談のつもりかもしれないが、周りを怒らせる以外の効果はない。真智子はみるみるみじめになり、怒りが込み上げた。

「ギプスのサイズを把握してなかったのは私のミスだけど!仕事のあとにわざわざ買って持ってきたのに、そんな言い方あるね!?」

 興奮のままに声はどんどん大きくなり、怒鳴ってしまった。母は唖然として、やや芝居がかった呆れ顔で椅子に座り直した。

「別に、頼んでないんだけど。何でそんなに怒るの?」

 その妙に落ち着き払った態度は、真智子の怒りには火に油だった。

「何で怒ってるか、わからんの!?」

 思わず叫んだが、父が何とか場を収めようと苦笑しながら宥めてきたので、真智子は深呼吸して自分を抑えた。

「袖が入らないのは私が確認しなかったのが悪かったよ。骨折治ったら着てみたら」

「いや、色がどうもねぇ

 まだ言うか。そう心の中でツッコミつつ、その後は普通に会話した。父に気の毒だし、30分程度顔を合わせて帰るのに、怒ったままではあまりに後味が悪すぎる。結局、母は他の病衣に着替えることもしなかった。

 実家から自宅へ歩きながら、感情の余波を味わった。普段、多少は取り繕えているが、本来、私そこまで忍耐力なかったわ、と真智子は思った。ふと、涙がこぼれた。妙にハリきって感謝されたかった自分を母に見透かされているような気がした。

 母の入院の日、真智子は仕事を休んで病院まで付き添った。驚いたことに、母は前回会った時の服から別の服に着替えていた。真智子の買ってきた服ではないけれど。

「え。結局、着替えたん?どうやったの?」

 「うん…」

 父はもともと口下手な人だが、年をとって単語が出づらくなり、父だけが把握している事態について、真智子が後から知ることは困難だった。しばらくして父が口を開いた。

「体が汗で気持ち悪かったらしい」

「そりゃ、そうだろうね。まあ着替えられたならよかった」

 病院まで短い距離だが、骨折した母と荷物を乗せるためタクシーに乗った。ラジオから誰かのトークが流れている。曲が紹介され、音楽が流れ始めた。不思議な音色の管楽器だった。

「あ!口笛!」

 母が後部座席で弾んだ声をあげた。言われてみれば、そのようだった。スマートフォンで調べると、この番組の今回のゲストは、口笛奏者だった。

「ほんとだ、口笛やね」

 返事しながら、母はこういう無邪気なところがあるんだよな、と思った。

 

 手術は無事終わり、退院前の主治医の説明を聞くため、真智子は仕事を早退した。父だけではどうも当てにならないからだ。母は同席せず、父と真智子だけで主治医の話を聞いた。母は骨粗鬆症であり、これからは薬の治療が必要になるとのことだった。

「母は薬とか嫌がって、病院にもなかなか行かなかったんです。先生からも薬の必要性をお話ししていただければ」

 真智子は頭を下げた。

 しかし、予想通り、母はその薬を飲まなかった。電話でそのことを父から聞いた真智子は、例によって仕事帰りに実家に寄った。真智子がエレベーターを降りると、父が玄関の外まで出てきて、首を横に振った。

「薬ね、お母さんがどっかにやってしまって、無いんよ。それで飲んでるって言いはるんよ」

 父よ、さすがにしっかりしてくれ、薬くらい管理してくれ、と内心で真智子はぼやいた。とはいえ、父も真智子も昔から、母がこうと決めて押し通すことを止めたり変えさせたりすることはほとんどできたためしがない。真智子も家の中を探してみたが、ひどく散らかってるわけではないのに雑然としており、処方された薬を見つけることはできなかった。

「飲んだから。大丈夫だから」

 寝椅子の母はきっぱり繰り返す。

「副作用の注意書きで怖くなったんかもしれん」

 父が小声で真智子に言った。骨粗鬆症で一番使われている薬(ビスホスホネート薬という)は、用法が少々面倒くさく、副作用の注意書きも多いことは真智子もよく知っている。

「そんならもう、しかたないね」

 真智子は母のそばにしゃがみ、話しかけた。

「お母さん、今回ちょっと転んだだけで骨折れたの、骨がそうとう脆くなってるんよ。骨を丈夫にしないと、また骨折するよ。たぶん、あんまり外出てないから、ビタミンDとか足りてないやろ。今度ビタミンDの薬、先生に出してもらったら?」

 責めるようなことは言わず、自分の患者に対するように説明と説得を試みた。

「ああ、ビタミンDね。たしかに日光浴びてないもんね」

 母が納得したようにつぶやいたのを見てとり、真智子はそれ以上しつこくは言わず、帰り支度をした。ビスホスホネート薬ほど骨折リスクを下げる効果はないが、ビタミンD製剤を飲むだけでもいくぶんましだろう。母の様子やこの度の経緯を真智子は簡単に紙に書き、父に、主治医に渡すよう頼んだ。

 次の診察で、真智子の考えどおり、主治医はビタミンDの薬を出してくれたようだ。電話で父から母がちゃんと内服していると聞き、ひとまず安心した。しかし、それも長くは続かなかった。ある日の電話で、母が便秘になったと言って、その薬を飲むのをやめたと父から報告があった。

 やっぱりか…。こうなる予感はあったので驚きはしなかったが、憂鬱ではあった。とりあえず、次の受診で主治医に事情をしっかり説明し、相談するよう父に頼んだ。真智子が主治医だったらどうするか。まずビタミンDの薬と便秘の関連を検討し、関連がなさそうであれば、ビタミンDは続けてもらって、便秘薬を処方するか。しかし、その便秘薬も母は嫌がりそうだ。あれこれ考えながら、診察日を待った。その日は仕事を休めず、自分が付き添えないのがもどかしかった。

 診察の翌日、父に電話したところ、主治医は処方を出さなかったということだった。主治医がどういった反応だったのか、父に聞いてみても「うーん」と生返事をするのみであった。

 母が薬を拒む理由は、真智子にはなんとなく想像できた。母自身が思う“健康的な生活”を送っているかぎりは健康でいられるはずという感覚が母にはあるのだ。その信念が、処方された薬を飲むことと相容れないのだろう。

 真智子はまた次の対応を考えた。市販のビタミンDのサプリメントも、同等の効果と言えるかはわからないが代用にはなる。これを何とか飲んでもらおう。サプリはドラッグストアですぐに買えた。

 しかし、すぐ母に届けねばと思っていたのに、どういうわけか真智子は実家に行くことができなかった。折よく、健康番組で骨粗鬆症の特集があったので録画したり、SNSで人を説得したいときの話し方についての研究者の動画が回ってきたのでメモしたり、常にそのことを考えているのだが、実家に行くということができない。

 定期的に父とは電話で連絡を取った。母はリハビリを頑張っているらしい。真智子は母の夢を見るようになった。

 病衣の母が目を閉じたまま、うわごとのように言う。

「何ね、お母さん、おいてかれるんね」

「おいてかないよ!お母さんのこと、おいてかないよ」

 必死で叫んでいたところで目が覚めた。先ほどまでの自分の声が頭の中でこだましている。時計は午前2時を過ぎていた。常夜灯だけのほのかな暗がりのダイニングに、ビタミンDのサプリの瓶が変わらず置かれていた。

 サプリのことはおいても、母に早く会いに行こうと真智子は思った。

 

ーENDー