緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

シン・エヴァゆかりの地、宇部新川駅

偶然、宇部新川に仕事で行く機会があった。その場所を言われたときは、遠い!とまず思い、シンエヴァのことは思い浮かばなかったのだけど、ホテルを調べようと検索したら「宇部新川 エヴァ」と出てきて、ラストシーンのあの場所と気づいたのだった。

山口県は新幹線の駅がいくつかあるのだけど、宇部は新幹線の駅からはかなり離れている。西からだと、新幹線の厚狭駅で降りて在来線で宇部駅まで行き、そこからまた乗り換えて宇部新川に行くという行程だった。滞在の間はほとんど仕事の用事で日中埋まっていて観光する暇はなかったのだけど、夕方に宇部新川駅の写真を撮ることができた。

 

 

 

三角屋根のかわいい駅舎。現在の駅舎は1948年に建造されたとのこと(セブンイレブンキヨスクで買った『るるぶエヴァンゲリオン』より)。

 

 

改札は自動改札ではなく駅員さんがスタンプを押す有人改札。この人一人通れる柵のたたずまい、錆び具合もよい。改札と発車案内の電光掲示板、奥に駅名とホームの番号、そしてその向こうに電車が停車しているところがおさまっているこの写真はお気に入り。右にはちょうどこのとき山口県立美術館で開催されていた庵野秀明展の看板も見切れている。

 

 

シンジとマリが手をつないで駆け上がった階段は3番ホームの階段らしいので向こう側に見えているのがそうかな。こっちは1番ホームの階段。映画を意識するなら、もっと近づいて煽りで撮ればよかった。

 

 

そしてポスターにもなった線路。レールの分岐ポイントや留置されている電車も撮れていてよかった。

 

 

ラストシーンで出てきた宇部新川駅前。俯瞰じゃないけど。

 

 

 

ホームと改札の間にある謎空間。ひろびろしていてよい。池か噴水らしきものはなんだろう。水はってなかったけど。

 

 

宇部新川駅、小さいながらも駅舎は歴史が古くておしゃれだし、こう写真に撮ってみるとわかる、随所に細かな魅力があった。仕事は長丁場だったし、往復の道のりは長くて疲れたけど、訪れることができてよかった。

 

 

『かぐや姫の物語』を見た

先週、高畑勲展に行ってきた。高畑勲の作品のことはあまり知らないのだけど、宮崎駿、富野、庵野などが作るアニメを好きな者としては高畑勲についても知っておきたいという気持ちがあった。高畑勲展に行く前にまず見ておいた方がよいだろうと『かぐや姫の物語』のDVDを買って見た。

かぐや姫の物語』、線を主体とした絵がものすごく美しくて、なんかもう名人芸といってもいいようなアニメーションだった。冒頭の、妖精のようなかぐや姫の幻、赤ちゃんの姿となりころころしている姫、成長していくたけのこ(姫のあだ名)…丸っこい描線がこの上ない愛らしさを生み出している。

たけのこは近所の子供たちと自然のなかで育つのだけど、そのなかでお兄ちゃん格の捨丸は、登場時からいきなりたけのこを猪から守るし、よく知らずに危ないことをしでかすたけのこを事あるごとに体をはって守る。アシタカを思い出させる精悍な顔つきの少年。たけのこと捨丸いい感じじゃん!と見ている私もときめくけど、別れがくることはわかっているのでつらい。捨丸兄ちゃぁん……という気持ちになる。

翁の発案により山の生活を捨て、捨丸たちとも離れ離れとなり都に移り住むのだけど、初めは大きなお屋敷やきれいな着物(自分を着飾るものとは思ってなくて遊び道具みたいにしている)ではしゃいでいたたけのこは、相模という家庭教師的な女性に貴族の女性としての窮屈な教育を施され、元の山での生活に戻りたいと思うようになる。ここで連想するのは……そう、アルプスの少女ハイジ高畑勲は、孤高のかぐや姫の背景を、単に“月から来た人”ではなく、このように想像したのだなと興味深い。山での生活を知っていてあれこそが“生きる”ことだと感じているかぐや姫には、貴族の生活は虚飾にしか見えないのだ。自然のなかで生きる力があり、生き物を愛する人間というのは、高畑勲の理想であり原点なのだろう。ただ、それはわかるのだけど、自然とともに生きる山の世界、虚飾に人々が踊らされる都の世界、そしてあらゆる感情を持つことのない月の世界、3つの世界が出てくると、テーマがわかりにくくなるのでは?という気もした。山の生活と都の生活、または人間世界と月の世界、という対立構造の方がわかりやすいような。

そして、ハイジのように山に帰りたがり、屋敷の裏の小さな庭を故郷の山にみたてて心をなぐさめる姫だけど(このあたり、かか様(媼)は姫の山への恋しさの理解者なので二人だけのシーンはほっとする)、生理がきてしまったため名付けの儀式が行われる。名付け、“なよ竹のかぐや姫”という名前自体はとても素晴らしくて(1000年以上前の原作どおりだけどすごいセンスだと思う)、さすが名付けに呼ばれるだけあるよ、秋田のじいさんやるじゃん!と思うけど、こう名付けられた瞬間、“たけのこ”ではなくなり、なよ竹のかぐや姫として成人の儀式をおとなしく受け入れる姫の表情は見ていて悲しい。山のことを言わなくなったハイジみたいで心配になる。

そうして名付けの宴が開かれ、貴公子たちが大勢招かれての騒々しい酒宴となるのだけど、かぐや姫は御簾に隠されて女童と二人ぽつんといるだけ。そのうち、客の一人が姫の姿を見たいと言い出し、それを止める翁に対して姫や翁を侮辱するような発言をする。それを聞いたかぐや姫は怒りのあまり手に持っていた貝の器を割り、武者のような表情となってその場から鬼神の速さで駆け出し、衣を脱ぎ捨てながら野山をかけていく。この場面の、見るものの心を押しつぶすような感情表現は圧巻だった。この作品でもっとも見どころかもしれない。たぶん、『かぐや姫の物語』の制作ドキュメンタリーなんかでこの場面見ているのだけど、武者みたいな濃い顔だったからかぐや姫だとは思わなかった。そうして行きついた山で地に横たわるかぐや姫…というところで元の御簾の中にいることに気づく。この場面はショックだった。夢(?)だったなんて。本当に怒りのまま逃げ出してしまえればよかったのに。

 

以降の場面は、文章として感想を書いていくの大変なので箇条書きで書きます(逃げ)。

・名付けの爺さんがかぐや姫のことを聞き出したい貴族たちに囲まれてるところで次のシーンに移るんだけど、画面に名付けのじいさんの顔だけ残して車輪をオーバーラップさせて次のシーンに移るという謎のギャグみたいな技法を使っていて、何?いまの…となった。じいさんの顔残して車輪とかぶせないでくれ。

・家庭教師的存在の相模さん、姫にいろいろ教育したけど姫が求婚全部断るし、お役に立てないといって去ってしまう。姫とは分かり合えないけどいい人だったな…。

・姫が牛車に乗っているとき、鶏どろぼうをして逃げる捨丸と遭遇するシーンはつらかった。牛車に乗る姫と、捕まえられて殴られる捨丸という対比。これは後からわかるのだけど、姫がショックを受けていたのはこんな状況で会ってしまったことと、自分のせいで足を止めた捨丸が殴られるのが辛かったからで、盗みをしていたことに対しては姫は特に気にしていなかったの、よかった(それも“生きる”こと!というのが姫の考え)。

・五人の貴公子編、石作皇子の話は原作から少し変えられていたりとバリエーションがあって面白かった。この映画ではこの人だけは宝物を本物だと言い張るのではなく、姫を口説くことで彼女を手に入れようとして、姫もちょっとだまされそうになってたの面白かった。実は北の方もいる浮気男だったというオチ。

・大伴大納言龍の頸の玉を獲りに筑紫の海に出たんだけど(ほらー、この時代から九州はこんな扱い…)、嵐と龍におびえる大伴を世話する船乗りの男が渋くてかっこよかった。

・燕の子安貝を取ろうとした石上中納言は腰の骨を折り、死亡。気の毒すぎる。そりゃ、この当時腰の骨折ったら死ぬよな…。これを聞いたかぐや姫、宝物はただ結婚を断りたい一心での口実だったのに、死者まで出してしまったことに、「自分は関わった者を不幸にしてしまう。庭に作った野山も偽物。自分も偽物」と絶望する。つらい。

・そしてアゴが長いことで有名な御門登場。姫の気持ちなどまったく気づかずノー天気に喜ぶ翁に「翁め…」と思う私(というか都に来るところからずっと思っている)。しかし翁は翁で姫を幸せにしたいという一心なので哀れだ。

・翁の屋敷を訪問し、かぐや姫のところへ忍んだ御門は彼女を背後から抱きすくめ、かぐや姫も見ている私も「ひぃぃ」となる。まったく知りもしない人間にこのようなことをされた瞬間の本当に本当に心から嫌だ、という感覚をはっきり表現してくれてありがとう…という気持ち。

・あまりのことにかぐや姫、御門の前で一瞬姿を消す。これ、原作どおりなんですよね。原作では「きと影になりぬ」と表現されている。私が昔読んだ子供向けのかぐや姫ではこの場面、省略されていた気がするけど、このタイミングでファンタジー要素入れてくるのすごく好き。

・そして、かぐや姫はとうとう月に帰らなければならないことを翁と媼に打ち明ける。この急な展開については、御門のあれが嫌すぎて姫のSOSスイッチ(?)が自動的に入ってしまい、それを月に感知されて迎えが来ることになってしまうという理由付けがなされていて、納得してよいやら笑ってよいやら。

・憤慨し嘆く翁の声の裏返りっぷり。地井さんの熱演。翁は事態の本質もかぐや姫の気持ちもわかってはいないけど、彼なりに姫を思う気持ちは誰よりも強いし、姫にとってはとと様だから憐れだよね。

 ・たけのこと捨丸が空を飛ぶシーン。私は捨丸のことはずっと気になっていて、最初に都を離れるシーンでもう出てこないの??と心配していて、そのあとの鶏盗んでたシーンでは、さすがにここで最後ではないよね?と思ってたので、最後に二人があのような形でひとときでも結ばれる場面が描かれてよかったと思う。妻子がいるのに…という意見もあるようだけど。ただ、空を飛ぶシーンの描写は素晴らしかったのだけど、やっぱりどうしても『千と千尋の神隠し』がちらついてしまうのだった。

・月のお迎えの非現実感。絵も音楽もよかった。絵巻物みたいで。月の曲はこの世のものと思えぬ不思議な明るさと楽しさがある。羽衣をかけると感情をなくしてしまうんだけど、お約束だと少しくらい待ってくれそうなのに、あまり待ってくれず姫にさっと羽衣かけちゃう月の人の問答無用っぷり。軽やかな音楽に乗って、月へと帰っていくかぐや姫と迎えの一行。感情をなくしたかぐや姫の表情。この、原作どおりの、ただただ地上の人間は無力で、月の人とかぐや姫は美しく地上から去ってしまう、さびしさや儚さがありながらカタルシスを感じるラスト。それを最大限に表現したすばらしい終わり方だった。

 

「姫の犯した罪と罰」というキャッチコピーの意味、私はうまく解釈できていない。なにが罪でなにが罰?すでに答えはあるのかもしれないけど、私はしばらくふんわりさせておきたい。

 

 

 

『閃光のハサウェイ』観てきた。

閃光のハサウェイ』を観てきたのでその感想を書く。

ちなみに私のガンダム知識としては、まず機動戦士ガンダムはTV版を全話見ていて、Zガンダム、ZZもだいたい見ている。そして『逆襲のシャア』はもう何十回とみているほど思い入れが強い。UCやNTは見ていない。

閃光のハサウェイ』の小説があることは前々から知っていたけど、内容を知っている人がなんか暗い反応をするし、そもそも逆シャアのハサウェイのラストを知っている時点で彼のこの後たどる道の闇の暗さが想像できるし、富野さんの小説は読んだことはないけどアクが強そうな気がして(ごめんなさい)、なかなか読む勇気がなかった。

その小説が映画化されるということを聞いて、そんな暗い作品をまじでやるのか…でも小説読んでいないし映像化されるなら観てみたいな…という不安半分、期待半分な感じで待つともなく待っていたわけだけど。封切りされてみると何か評判がよく、面白かった!という感想を見かけたので、わりと楽しみに見に行くことができた。人様の感想って大事。というわけで私も感想書くぞ。

以下、今回の映画のネタバレはありますが、小説は読んでいないので上映された分より先の展開については私は一切予備知識ありませんので、そのへんよろしくお願いいたします。

 

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TV版エヴァンゲリオンを観ていて思ったこと

シン・エヴァンゲリオンは先々週に観に行って、感想も書こうとしたのだけど上手く書けない!と放り出したまま、ネトフリでTV版の23話「涙」24話「最後のシ者」を見たりしていた。どちらの話も、シンジが心がつながっているように思えた相手である二番目の綾波、そして渚カヲルを自分のために喪失することになるという話で、完成度がおそろしく高い。エヴァ内の科学的事象(ATフィールドとか、使徒が精神に侵蝕するとか)と登場人物の心がリンクして、科学的設定を正確に理解できているか微妙なところな私もすんなり理解できるほど見事にストーリーやセリフが構成されている。レイがなぜ自爆しなければならないのか、カヲルがなぜ消える運命を選ぶのか、論理と心が一体となってダイレクトに理解できるのだ。

 

特にカヲル君の出てくる24話をよく観ているのだけど、それで気づいたことがある(ここからは小ネタです)。アスカやシンジが戻ってこず家に一人でいるミサトのシーンがあって、そのときの独白から、彼女の家はわりと中心部から離れているので被害は及ばなかったということがわかる。つまりミサトさんは職場から少し離れたところに住んでいて、非常時にはスポーツカーぶっ飛ばして職場にかけつけて「遅くなってごめんなさい!」ってやってたんだな、ってことがここでわかる。

作戦部長がそれでいいの?とつっこむ向きもあるかもしれないけど、こういういつ呼び出されるかわからない忙しい立場の人ほど、家は少し離れたところがいいという話もあるよなーと思う。家が近いからということで気軽に呼び出されてしまったり、呼び出されなくても自分が気になって職場に行ってしまったり、行動範囲が家と職場の間だけになってしまうから、気分的に仕事から離れるために物理的にも少し距離をおいた方がいい、と(あくまで緊急時に対応できる範囲ではあるけど)。こういう社会人としてのネタに思い至れるようになったのも、自分が年をとったんだな…と感慨深い。まぁ、一緒に住むシンジやアスカは不便に思っているかもしれないけど。

それにしても、今後はいよいよミサトの家も危ないからペンペンを洞木さんちに預けるという話が出ていて戦慄した。どれだけ洞木家に世話をかける気なんだ。

あと、いま24話を脳内で振り返っていて気づいたんだけど、日向君とミサトがフィフス・チルドレンのことで上層部に探りをいれるのに情報のやりとりを外出してしたりしているけど、あれ、対外的にはデートをよそおってるんですね(ちゃんと考えたことがなかった)。どうせ諜報課とかには見張られてるんだろうし。片思いの人相手に実際はデートじゃないのにデートをよそおう状況に陥っている日向君よ。せつない。

自分に恋心をもっている相手に、体の関係に持ち込むことなく、気持ちを知ったうえで自分の目的のために利用させてもらうわよって表明しているミサトさんはかっこいい(というか、修羅っちゃってるからな…)。もちろん日向君がちゃんとした人だからこそできることだけど。自分の目的とはいえ、人類の命運かかってることだしね。

そう考えると24話は、シンジとカヲルがアニメ史に残る神話を繰り広げる一方で、日向君からミサトへの純度の高い片思いロマンスが展開してたんだな。たった30分の間に…。この男女、さらりとサードインパクトを止めるという人類の命運を背負う覚悟でいるし…。そんな彼らの思惑の及ばぬところで決着をつけるシンジとカヲル。壮大すぎる。

 

そうやって振り返ると24話、シンジもミサトもそれぞれに置かれた状況のなかでせいいっぱいやった訳ですよ。なのに何でラストの会話はあんな後味悪いんだ…。ある意味エヴァらしいけど。カヲルを手にかけてしまったことで、シンジは自分を責め続けるし、ミサトはそんなシンジの心を救うことはできない。あまりにも誠実すぎる作品なんだよ…。

近況 ジョジョと斉木と明月記

大きな仕事の〆切はないのでそこは気が楽だけど、この時期に多い書類仕事が順調に蓄積されている。勤務時間終わったあとの夕方~最終バスの時刻までに少しずつ片づけられればいいんだけど、その時間帯にカンファレンスとか入ったりすると、書類を処理する時間がない。

あと、上司に頼まれていたある分野のまとめとか(緊急性があるわけではなくて、なんと昨年から言われているのを伸ばし伸ばしにしていた。いいかげんにしろ)、最近「あれはどうした」と上司に言われたのでさすがに今やっている。

 

趣味の方。ジョジョ5部アニメは最近ノトーリアスBIGからポルナレフ登場までまとめて見た。ノトーリアス戦はトリッシュが活躍するのが大好き。リゾットVSドッピオ戦は主人公陣営であるナランチャエアロスミスが第三の要素として絡んでくるあたりがあらためてすごいな、と。キングクリムゾンVSメタリカはどちらの覚悟も読み合いもすごくてベストバトルのひとつですよね。アバッキオの死の回は、時間の流れ方とかすごくよかった。ローマ、コロッセオにくるといよいよ最終章感がましてきて、昔読んだときは恐ろしかったグリーン・デイとオアシスとの戦いが、最後の楽しいお祭りのように感じられてしまった。満身創痍のブチャラティがつらい。

漫画は、最近ストーリーものを追いかける気力がなくて、ゴールデンカムイ進撃の巨人も最近のコミックス数巻くらい買えないでいる。でも何か読みたくて先日は斉木楠雄のψ難の10~12巻を買ってきた。昨年少しずつ集めていて、ちょうど10~15巻を持っていなかったのだ。10~12巻は楠雄の兄の空助初登場でその後も何回か登場する。空助の天才なのに弟に一度も勝てなくてこじらせているキャラクターは秀逸だなと思った。

あと、読書では『定家明月記私抄』(堀田善衛)を少し読んだ。定家、歌人ということしか知らなかったけど、二流貴族として暑い中も寒い中も雨雪の中も日々どこかに出かけて誰それへの挨拶だったり後鳥羽上皇の放埓な遊びにつきあったりしないといけなくて、老体(40代だけど、いろいろ体悪くしていたようだ)にはしんどいみたいな日記つけていて、いつの時代も大変だよなと思ったりした。また、明月記のなかに出てくる、

行蛍なれもやみにはもえまさる子ヲ思ふ涙あはれしるやは

という、病気の息子を思って詠まれた特に公には出ていない歌について、「他に掛け替えのない深甚な経験にもとづくものが(中略)平凡なものになるという奇観」と作者が書いていたのが興味深かった。こんな私生活に基づいた歌も個人的に詠んでいたのだなと親しみがわく。