緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

10年で少しの変化と、これからのこと

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

なんだか自分に突き刺さるお題だ。10年といわず、自分って変わらないな、成長しないなと思うことが多いから。よく『大人になったら自然と心も成長すると思ってたけど実際に年とってみたら考えてることは学生だった頃とそんなに変わらない』ってきくけど、本当にそう。

それでも、ふりかえってみると10年前にくらべればいろいろ自分の世界も広がったし、まったく成長してないこともないと思う。社会人としても一応若手であった頃から中堅となったわけだし、まぁいろいろあった。


◆そんなわけで、まず、10年で変わったことから。

二次創作BLに開眼
ファンロードを中学の頃から読んでいたので同人誌の存在は知っていたけど、その世界に足を踏み入れたことはなかった。
同人誌のなかでも一大ジャンルである二次創作BLに対しては苦手意識もあった。どちらかといえば原作至上主義だし、なんでわざわざキャラに色事をさせたいのだろう、あまりキャラのそういうところ見たくないのにという感じだった。そんな私が二次創作を読むことになったきっかけは黒〇スである。
なんらかの作品にめちゃくちゃハマったことのある方ならわかると思うが、ハマっているときはその作品のことしか考えられなくなる。しかし、その思いをぶつけようにも、手元にはすでに何度も読んだコミックスしかない。私はこのキャラのこういうところが好きで、このセリフが好きで、この場面がめちゃくちゃ好きなんだけどみんなはどう思ってる!?と、もてあました情熱でネットに向かい、ファンサイトやブログなどを読み漁った。そうやって見つけたサイトのなかには、感想や考察だけでなくキャラ同士のカップリングの小説も置いているところがあった。そうか、この方はこのCPが好きなのか…と思いつつ、考察だけ読んで小説は読まずにおいた。とにかくそういうものに免疫がなく、キャラ同士のそういうシーンとか、「わー///」と恥ずかしくなってしまう気がしたのだ。でも、その方の考察の文章は濃く、ものすごく面白くて、そこからそのCPへの指向が醸成されるのも分かった。自分には縁遠いと思っていた二次創作CPというものに距離が近づいた瞬間だった。

pixivとの出会い
飽きずに黒〇スを追いかけてネットを見ているうちに、pixivの二次創作マンガを検索で見かけるようになった。最初は、わざわざアカウント作るまでは…と一人で抵抗していたが、ついにpixivのアカウントを作り、二次創作マンガを読み漁るようになった。初めはCPのあるものは避けてオールキャラギャグを中心に読んでいたのだけど、同じ描き手がオールキャラもCPも描いたりしているし、総量としてはCPモノのほうが多いので目に入るし、こわごわながらCPモノも読むようになった。それがもう面白くてハマってしまった。そのうちR18も見るようになった。たぶんきっかけは同じ作者のシリーズもの(何回かにわけてストーリーが進み完結する)で、次の回はR18です、みたいなことがあったんだと思う。設定を変更してR18も見れるようにした。そうすると、見れる作品数が増えた(当たり前)。R18タグが付いていると言っても、初めから終わりまでR18シーンというわけではない。これまで読み逃していたストーリーが読めるようになり、さらに楽しいpixivライフとなった。ピクシブのブックマークやフォロー欄には地層のように、これまではまってきたジャンルが積み重なっている。

はてなブログを始める
これも黒〇スの感想を書きたかったのがきっかけ。おそるべし、黒〇ス。ホームページやブログ自体は学生のときちょっとやっていたけど、卒業や就職で忙しくなるとともにフェードアウトして、社会人になってから作ったのはこれが初めて。そしてそのまま続いている。

短歌に興味を持つ
穂村弘の本を読んだことと、はてなブログ上ではてな題詠「短歌の目」に参加したことがきっかけ。詳しくはこのあいだ、ブログに書いた。
hirinzu.hatenablog.com


twitterを始める
はてなブログで私の黒〇ス記事にスターやコメントをくださった人からすすめられて。時間泥棒だと噂に聞いていたので少し抵抗があったのだけど興味が勝ち、おそるおそるアカウントを作った。初めは何をどうしていいかもわからなかったけど、マイペースにぽつぽつつぶやきつつ好きなアカウントをフォローしていった。まあたしかに暇があれば眺めてしまっていつのまにか一日過ぎているので時間泥棒ではあるけど、twitter見てなくてもごろごろしていることに変わりないしな…。よきTLを築けたと思っている。楽しい。


こうやって振り返ると、一つの作品にはまったことから派生して、いろいろなことにつながっているなと思う。ちょうどこの10年はインターネット上のサービスが生まれて拡大していった時期で、そういったものに積極的についていこうとしていたわけではないのに、自然と順応していったなぁという感じ。
なんか、オタクライフの話ばかりになったので、社会人としての変化も一応書いておこう。

資格を取る
仕事に関わる資格のための試験を2種類受験して合格した。なんというか私は日常的に勉強してアップデートするということが苦手なので(ほっとくとpixivかツイッター眺めてしまう)、こうやって目標を作ることで何とか勉強するように仕向けている。先月も某試験を受験したので受かっているといいな。

仕事上のコミュニケーション力
多少はましになったかな…。というよりは10年前がひどすぎて思い出したくない。



◆次に10年で変わらなかったことだけど、私の意識的には変わらなかった部分が自分の大半を占めている。

家事が苦手
本当に自分でどうにかしたいと思い続けているのだけど、どうしても料理をしない。まず仕事の日は帰ってくるのがだいたい18時半~20時半くらいなんだけど、帰宅したら空腹ですぐ何か食べたくて我慢できないので、コンビニなどで買ってきたもののレンチンになってしまう。じゃあレンチンでいいから、前もって自分で作っておけば?と思うのだけど、前日に準備してまで自分の料理を食べたいと思わない。というより、いますぐ食べないのに料理する気がおきない。
あと、掃除・片付けも苦手。本当に情けないけど、仕事以外のことで立ち働くのがおっくうなのである。洗濯はしないと自分が着るものなくなって困るからするけど、掃除・片付けは一人暮らしで家主である自分が許容すればしなくても困ることがあまりないから…。
料理に関しては毎日これが何十年も続くのはさすがに健康上やばいんじゃないかという気がしているので、何か手立てを考えようと思う。一人用のホットクックとかもあるらしいし。掃除・片付けは、ごくたまにやる気が起きたときにはやるんだけど、最近そのスイッチがなかなか入らない。1か月ほど試験勉強して、それがやっと終わって気が抜けてるという言い訳を自分にしているけど、もう半月はたったし。変わりたい。

シングルである
結婚していない。子供もいない。知人に紹介された男性と会ったことがあり、その人はとてもよい人だったのだが、それでも結婚したいというところまではいかなかった。そのあと数年たち、40歳になる前に婚活をしようかと考えたが、そもそも紹介されたあんなよい人でも結婚しようとはならなかったのに、結婚したいと思える相手が見つかるものだろうか。
とある結婚相談所にウェブで入会説明のお話を聞いたのだが(ちょうどコロナ流行下だった)、成婚するかどうか、出会いから約半年で決めるシステムになっているとのことだった。ずるずる長引かせないのは遊び目的の人などを除外するためで、なるほど、ちゃんとしているなと思ったのだが、そうすると入会して半年後には結婚を考えないといけないのだと思うと二の足を踏んでしまった。そして今もそのままだ。
結婚願望ないんじゃないの?と言われたら、まぁそうなのかもしれない。少なくとも強くはないと思う。相手さえ見つかれば家庭を築く自信はあります!というタイプではない。なら婚活なんて考えなければいいじゃないかとツッコまれそうだけど、本当にこのままシングルで生きていくと決めてしまっていいのかという不安がある。そうした不安が婚活などの行動を起こさせる。でも、このあいだウェブの記事を読んでいたら婚活でしばらくお付き合いした相手と結婚するかどうかというところで結局断ったという女性の話があって、その気持ちに私は共感するところもあったのだけど、記事についたコメントには「そのつもりないなら婚活するなよ」「付き合わされた相手の人がかわいそう」「こんな人に婚活されたら迷惑」みたいなものが並んでて、厳しめだった。批判する人のいうこともわかるが、可能性を探ることも許されないのか、と。自分が婚活しても結局こうなってしまうかもしれないという現実を見せられたような感じで、ますます踏み出せなくなった。


なんか書いているうちにネガティブになってしまった。シングルで生きていくことそのものについては、実はそこまで悲観はしていない。もちろん不安なことはあるけれど、これまでのように何となく一人で生きていくしかないし、年取ったら今は想像もできない困難が待ち受けているかもしれないけど、そこは今悩んでもしかたないし、結婚していれば大丈夫とはかぎらないし。
だけど、いま結婚についても考えてみたいという気持ちはあるのに、そもそも家ではほとんど動かずぼーっと過ごしているという自分であるうちは誰かと結婚について語り合うということすら難しい。自分のそういうところが10年変わらずにきてしまったというのが、なさけない。シングルでいるにしても、結婚するにしても、もっと自分の生活をきちんとしたい。ブログで人生とかの話をすると、いつもこの結論になってしまうが、結局これに尽きるのだろう。
ただ、もし変われないとしても、この記事の前半で書いたようにまぁまぁ楽しくやってこれたので、ネガティブになりすぎず、これからもやっていこうと思う。

試験勉強といろいろ思ったこと、『蟲師』の話

今週のお題「今月の目標」

 

やっと試験勉強に本格的に取り組み始めたんだけど、試験までの休日の数を数えてみるとやばいなという状況である。私はSNSでのちょっとしたつぶやきでも思ったことをちゃんと書こうとすると時間がかかってしまうので、なるべく試験まではSNSやブログを書かない方がいいんだけど、いっさいそれをやらないと思考や感情のはきだすところがなくて内側にたまってしまい体に悪そうなので、今日いったんここで発散しようと思う。

 

・勉強について

ミニルーズリーフに手書きで覚えることをまとめて、そのなかの用語はチェックペンのオレンジで書いて赤のチェックシートで隠せるようにするという、中学生、高校生の試験勉強のようなことをやっている。こういうやり方じゃないと勉強できないのである。読んだだけで頭に入るという人はうらやましい。

 

・勉強中のBGM

基本的には家で勉強していて、無音で勉強していると何か物足りなくて音楽や録画してある番組を流すんだけど、つけるとそれはそれで邪魔になって消すということを繰り返している。だめですね。これ、ファミレスとかカフェで勉強すると何がいいかって、自分で流すものを選択できないのがいいんですね。自分で選んで流すものって結局は自分に馴染んだ好きなものだし、どうしても意識してしまう。選んだものについて判定してしまう。自分がそれほど興味ないものが選択権のない状態で適当に流れている環境がいいんだな。

 

・さっき思ったこといろいろ

スマホスクリーンショットを眺めていたら、去年は嵐の活動休止前最後の年で嵐にフィーバーしていたことをなつかしく思った。いまも彼らを好きな思いは続いているけど、それぞれの活動を逐一追うとかはしていない。ファンクラブには入っているからときどきファン向けの動画など届くこともあるのだけど、見ることもあれば見ないこともある。すべてのことは過ぎ去ってしまう。でも、こうやって思い返せるのは幸せなことだ。

 

スマホをいじりながらとりとめもなく思考はうつり、短歌の投稿サイト「うたの日」の明日のお題で「将棋の好きな駒」というお題があるのを知った。「うたの日」は試験に向けてお休みするつもりでいたのだけど、なぜか今のところまだ毎日投稿している。将棋の駒で何が好きかな。「銀」いいよな。斜め方向にはいけるけど、真横と真後ろには行けないという、性格まっすぐじゃないけど斜め後ろにいけない「金」を補う感じ、いいよな…などと考えているうちに、「銀」から「ギンコ」という連想で『蟲師』のことを考え始めた。

 

蟲師』、原型のファンロードに掲載された主人公がギンコじゃない『虫師』という作品があってそちらも好きだったのだけど、その作者さんが別ペンネームでアフタヌーンに『蟲師』を連載しているということを知ったときは驚いたしテンションが上がったのを覚えている。『蟲師』1巻を買って、初めは「『虫師』の柊十郎さんとキクくんじゃないのか…」と残念に思ったのだけど、1話の『緑の座』からしてとても惹かれたし、ギンコも好きになった。

1巻は『旅をする沼』もよく(化野先生登場回でもある)、2巻は『筆の海』の淡幽の生き方がとても好きだった。そして3巻でギンコの過去の話があるのだけど、ぬいとギンコの別れがあまりにせつなかった。

蟲師を読んだ時の途方もない感情、作品の世界に取り込まれてしまいそうな、二度とないと思えるくらいの出会い。今はもうさまざまな創作物に慣れてしまっていて、あのときと同じくらい鮮明にせつなさを感じることがこれからあるだろうかと思ってしまった。試験終わったら、過去読んださまざまな作品を読み返したいし、新しく創作物にも触れたい。

 

呼出音や保留音のメロディーに向いていない曲

呼出音や保留音に使われる音楽のこと、総称して何と呼ぶのか軽く検索してみたけどわからなかった。何か業界用語としてありそうだけど。総称がないと、この文章が書きにくいな。

こういうのは、ポピュラーな曲のもっともポピュラーな部分が単純化されたメロディーにアレンジされるわけだけど、向いている曲と向いていない曲があると思う。私が聞いたことあるなかでの二大・呼出音にすると間が抜ける曲は、『浪漫飛行』と『ホール・ニュー・ワールド』だ。

 

浪漫飛行』のナースコールを初めて聞いたときはあまりの間抜けさにその場で崩れ落ちそうになった。ちょうどサビの「君と出逢ってからいくつもの」のところから始まるのだけど、かなり単純化されていて音数も減らされている。「君と」はなくて、「でーあーってからーいーくーつもーの」って感じだったかも。あるいは「そーのーむねのなーかーまーでもー」か。とにかく、単純化されると、メロディーとして大きく変わりはないはずなのに全然印象がちがう。え?こんな曲だった?ってなる。いま自分でも歌ってみたけど、歌声は、全音・半音の音階だけでは表現できない範囲も含んでいるんだろう。「出逢ってからいくつもの」の「もの」のところだけでも複雑な揺らぎとニュアンスがあるように感じる(私は音楽に詳しくないので正確に説明できないけど、たぶんこぶしとかビブラートとかがそれなんだと思う)。それをナースコールのような、複雑な音を表現するのにリソース使ってる場合ではない機械で奏でる必要はない。でも、それにしてもここまで原曲の良さが損なわれるとは…って感じだった。

 

ホール・ニュー・ワールド』は、私は原曲を知らずに職場の電話の保留音として何度も聴いていて、あまり盛り上がりのない、とらえどころのない曲だなと思っていた。こちらはちょうど歌い出しのところから始まるんだけど。

「タンタタンタタンタン♪ タンタタンタタン ターンターン♪」

それを、待たされている状況だったり、はたまたこれから話す内容によっては憂鬱な気持ちのときに繰り返し聞くことになるので、パブロフの犬状態で、このメロディを思い浮かべると条件付けで受話器をもって待たされている物憂い気分になってしまう。これが鳴る職場から離れてからもこのメロディを耳にすることはあったが、何の曲かは知らない状態がしばらく続いていた。

ある日たまたまテレビで『ホール・ニュー・ワールド』を歌手がステージで歌っているのを聞いて、ん…?よく電話で聞いてたあの曲じゃないかと気づきびっくりした。『浪漫飛行』のナースコールとは逆の衝撃。え?こんなに豊かな情感のある天上から降ってくるような歌声の曲だったの?『アラジン』だったんだ。男女のデュエットなんだ。人の歌声ってすごい…。これを保留音にするとああなってしまうのか。

 

この二曲が向いていない理由というのを考察しようと思っていろいろ考えたんだけど、何だか大きく間違えそうなので、やめておく。単純にこの二曲における原曲とのギャップが私のなかで印象深いというだけな気がするし。

逆に、呼出音や保留音のメロディーに向いている曲って何かなと考えた時一番に思い浮かんだのは『イッツ・ア・スモール・ワールド』だ(ワールドちがい)。あらゆるところで使われているだけある。子供のまっすぐな歌声が映える曲だし、音数多めなわりにリズムはシンプルで、呼出音として聴いてもギャップが生まれにくい。

こう書くと、向いている曲、向いていない曲のちがいの結論めいたものが出るんじゃないかと思われるかもしれないけど、サンプルが少なすぎてなんとも。

最初、『浪漫飛行』と『ホール・ニュー・ワールド』は歌い手の声と歌唱の技術が楽曲の魅力とわかちがたく結びついるから…と考察してたけど、じゃあ向いている曲はそうじゃないの?と言われたら困るし。その曲が向いている理由、向いていない理由を考えることはできても、それを一般化できるかというとそれはわからないんだよね。これからも個人的なテーマとして、向いている曲と向いていない曲のサンプルをストックしていこうと思う。

 

短歌 生き物

 

街灯の眩しさに夜も鳴く蝉の姿を探す残業帰り

 

 

台風の名残か道に蟹がいて川面も空もすがしい濁り

 

 

岩肌に暖をとるウミイグアナは微動だにせず天を見上げる

 

 

 

三首とも

うたの日

に出詠したものです。

二首目、ひらがなの「か」「に」が隠れていることに今気づいた。