緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

追記

下の日記にはこの地域の医療がどうなっていくのだろう?という不安を書いた。
医療機関は常に目に見えないウイルスの感染に対してできるかぎりの注意をしなくてはならないという状況が続いていてしんどい。

だから感染者はなるべく少ないに越したことはないのだけど、でもやはり市民生活は少しずつもとに戻っていくのはしかたないと思ってる。今日、所用で街に出たけど、わりと人通りがあって、まぁ土地柄そのへんの道が人混みになるほどの人出はないのが幸いだけど、まあそれなりの日常を取り戻していて何となくほっとした。感染を恐れるあまり皆が他罰的になるのもそれはそれで怖いのだ。いまのところこの地域では医療従事者に対して忌避的な言動があったという話はわたしは聞かないので、今後もそうあってほしいと思う。

本当にこの自粛と活動のバランスは難しい。世の中の雰囲気、感情に如実に左右されるあたりも含めて。あとから振り返れば学問的に興味深い現象なのかもしれないと思うけど。

多少感染者がでても医療機関、医療者にリスクと負担がかかってつぶれてしまわないような、新しい技術とかシステムとかできてくるとよいのだけど。

日記

ここ連日2桁の新規感染者が報告される地元。
職場内でも、徹底した注意が呼びかけられている。

規定どおり、しかるべきときにはマスクとアイガードをつけている。アルコールでの手指消毒や石鹸での手洗いもしている。でも、完璧にすべてのタイミングで実行するというのはなかなか大変だ。たとえば、そのへんのパソコンやなんかをさわった手で顔を触れるのは避けるべきなんだけど、顔がかゆいとき、髪が落ちてきたとき(いまの髪型は短めのボブ。前髪をヘアピンで留めてる)、マスクやアイガードがずり落ちてきたとき(マスクはちゃんと鼻のところでノーズフィットの針金(?)を曲げてるんだけどそれでも落ちてくる)、どうしても顔を手で触れそうになる。いかん、と思って手指消毒してから顔に手をやったりもするけど、正直その都度消毒か手洗いしてたらきりがない。なるべく顔に触れること自体を我慢しなくてはならない。

マスクもすごくずり落ちてるように感じても、実際は鼻の頭がちょっと出てるだけというときもあるので、わざわざ手指消毒してまで位置をなおすべきなのかという疑問もある。しゃべってるとだんだん落ちてくる(気がする)のだ。しゃべるのが仕事だし。
どっちだ?マスク位置なおすために手で触れるのと、マスク落ちてきたままにしておくのとどっちがリスク高いのだ?そんな細かいところまで気にするはめになっている(いまのところ、なるべく顔に触れる回数を減らしたほうがいいのだろうと思ってる。明らかにマスクが落ちて鼻の穴まで出てるとか、相手が咳してるとかじゃないかぎり)。

こんなことを考えるにつけ、やはり100%感染しないさせないというのは難しいと思う。手指のアルコール消毒と石鹸での手洗いの回数も、物理的にも精神的にも限界がある。消毒の回数を減らすために行動の手順をある程度考えないといけなかったり、さまざまな不便、窮屈感、ストレス、プレッシャーがある。

とはいえわたしはいまのところ、感染する可能性のあるところで働いていて、その感染予防策に疲弊しているくらいだが、直接コロナウイルス感染者の診療や看護などで日々接している人の体力的、精神的疲弊はこんなものではないだろう。

新規感染者が出るたび、今後この地域の医療はどうなっていくのだろうという不安、自分が感染者またはその疑いの人と突然接することになったとき適切に対処できるかの不安(もちろんマニュアルはあるが)、けれどももっとハードな状況で働いている人がいることを考えると今はまだそれほど忙しくもないのに怯えている自分が同じ医療従事者として情けないと思う気持ち、などが湧いてきてぼんやりとブルーになる。

ブルーになるくらいなら、淡々と自分のできることをするしかないし、不安ならできるかぎりマニュアルや適切な文献に目を通してシミュレーションするしかない、と自分に言い聞かせている。

毎日家に帰ってからなにもしてない

コンビニで何も欲しいものがなく、何も買わずに帰ってきてしまった。だから今日はごはんを炊こうと思っていたのに、空腹のままベッドに横たわっている。ようやく起きれば窓の外はもう暗く、赤や青やオレンジの灯りが光っている。

家のなかはかすかににおう。
それは私がコンビニで買ったお弁当やお総菜の食べた後の容器を台所にそのまま置いているからだ。置き方はいろいろで、使用済みのテイッシュを容器にしきつめ、残ったお汁を吸わせていたり、軽く洗ってそのまま乾かしていたり。ゴミの日が来たらすぐ捨てるから、これはまだ食べ物の匂いだから大丈夫だ…と言い訳している。腐らないのが逆に怖いよな…と、コンビニのごはんに警戒心をいだいてみたりする。お世話になってるのにごめんなさい。


起きて、台所のにおいを感じながらトイレにいくあいだにこれだけの思考が頭のなかを流れてそのまま過ぎ去ってしまいそうになるのを文章化してみた。

このあと、先日コンビニで買った卵と豆腐とカットキャベツを炒めてレンジでチンしたごはんと一緒に食べた。

日記

いま、緊急事態宣言下にいる。
そんななかだけど、元気っちゃ元気です。

私は医療従事者なので当然仕事には行かねばならず、仕事がなくなるとか、休業の判断を迫られるとか、本当は在宅で仕事したいのに職場が許してくれないなどの悩みはしなくてすんでいる。
異動してきた地域は前いたところに比べてコロナウイルス接触のリスクが高く、えらいことになったなと思いながら1週間ちょっとがすぎた。

私は春先、特に引っ越しで新居に移ったばかりのときは鼻やのどの調子がよくなく、寝ているときとかに鼻がつまったりのどが痛くなったりする。恐らくそういういつもの症状なんだろうけど、今のような状況下では万が一の可能性も考えざるをえないので、何となく気持ちがどんよりしてしまう。ものごとのやる気がでないというか。でもこれも私にはよくあることで、特段コロナウイルスの影響で精神的にまいってるというわけではない。

けれどもぼんやりと、自分が無症状のままコロナウイルスに感染している可能性があるという自覚や、運悪く重症化する可能性も0ではないということが、常にうっすらつきまとっている。これは私に限らず世界中の誰もが程度は違えどそのような状況に置かれていて、そのなかでも日本の中では比較的程度が高い方に私はいる。地域的にも職場的にも。

自分の場合は一人暮らしで、普段から職場と家を行き来する以外何もしないし人と会う機会も少ないので生活の変化があまりなく、周囲の人へ感染させないように気を遣う労力も少なくてすむので、そういう意味ではストレスは少ないほうだと思う。ただ、実家の両親に会いづらくなってしまったのはちょっとつらい。
それでも万が一発症したときの苦しさ、辛さは想像しようにも、できていないのだろうなと思う。

職場で使うマスクもアイガードも、本来なら適宜換えなければならないのだが、同じものを何日も使用している。そうでないと近いうちに使いきってしまうから。
使用したマスクやアイガードはいわゆる医療用語でいう"不潔"となっているので、これの置き場がまた悩みどころだ。自分の持ち場のなかの同じところに置くことで自分の中でそこは不潔エリアということにしているけど。
ちなみにアイガードは石鹸で洗っている(医療用マスクは洗いようがないのでどうしようもない)。こんな行為を当然のようにすることになるなんて。ふと、「この世界の片隅に」を思い出す。ふだんの生活を送りながらいつのまにかじわじわ物が手に入らなくなり、平時には考えられないような工夫を行うようになる。そのような状況を、同じ不便をこうむるものどうしで愚痴と冗談を言いながらやりすごしている。世界のおそろしさとあたたかさを同時に見ているような感じ。

私の業務は直接感染に関わることではないので、むしろ仕事量自体は減っているが、特殊な状況のために常にはない判断をしなければならなかったりする。いよいよ今以上に状況が悪化した場合は、本来専門でない業務にかり出されることもあるのかもしれず、そうならないことを自分のためにも地域のためにも祈っている。