ブログの背景色をクリーム色から薄茶色(おしゃれな言い方を知らない)に変えた。
夢だけ持ったっていいでしょ
夢を見た。
友達2人としゃべっている。1人はたぶん大学の同級生Kさんで、もう1人は同じく同級生のYちゃんかな。一瞬の夢の記憶なので、明確な設定はわからないが、たぶん3人とも大学生当時という認識だったように思う。たわいない会話。
「嵐の中で誰が好き?わたし相葉君」
「わたしニノ。ひりんず(仮)ちゃんは大ちゃんだよね?」
ここで、はっっと目が覚めた。なんだか面映ゆくて笑ってしまう。しばらく反芻して、「ああ、いいなー!!」と思った。なぜって大学時代、嵐について会話したことは一度もないのだ。私も含めて誰も嵐ファンではなかったから。Kさんは応援するプロ野球チームの選手が好きだったし、Yちゃんは筧利夫と言ってたことがあったのは覚えている(もっと他にYちゃんといえばという代表的(?)なのがあった気がするけど思い出せない)。私は特に熱烈に好きな男性芸能人というのがなくて、しいてあげるなら本木雅弘だった。大河ドラマの徳川慶喜役の彼が好きだったから(ドラマが放映されてたのは中学時代)。
いま、彼女たちとこんな会話をする機会はないし、いま職場で会う人たちとこんな会話にはならない。もしかしたら、話題にあがれば意外と盛り上がるかもしれないけど、自分から話題にする勇気はない。大学の昼休みにカフェテリア(というか生協食堂)でこんなたわいのない話ができていた時間があったのをなつかしく思う。
それにしてもこの夢の中の会話、ポイントは「大ちゃん」である。わたしは普段、脳内でも大ちゃんとは呼んでなくて、大野さん、大野くんと呼んで(?)いるのだけど、なんでいきなり大ちゃんなんだ。びっくりしたよ。
この夢を見たことで「嵐のなかで誰が好き?」会話に焦がれすぎて、ついに弟に頼んでしまった。
「別に無理にとは言わないけど、嵐のなかで誰が好きという会話ができるレベルに嵐を知ってくれたらうれしい」と。私も弟が好きな歌手のライブについていったことがあるし、何かと布教し合う仲なので、まぁこれくらいお願いしてもよいだろうと。弟は、えー?と言いながらしぶしぶ了承してくれた。
太宰府に行った。
先日、太宰府に行ってきた。
太宰府にはこれまでにも何度か訪れたことがある。太宰府天満宮にお参りしたり、九州国立博物館ができてからは目当ての特別展を見た帰りに天満宮に寄ったりと、日帰りで行くのにちょうどいいところなのだ。
太宰府はかつて九州一の都であった地で、いまもその古都の雰囲気が残されているところが好きだ。とんでもなく栄えていたにちがいなくて、それでも時代それぞれの中央である大和や京の都からきた人からすれば馴染みのない土地であり(道真公とかあきらかな左遷人事だし)、そんな彼らを連想するためか、どこかもの悲しさがある。
今回は夏休みなので一泊旅行にしてみた。旅程はこんな感じ。
1日目:九州国立博物館
2日目:朝に太宰府天満宮にお参り(朝拝に初参加)→坂本八幡宮へ→坂本八幡宮から引き返す途中で大宰府政庁跡→戒壇院→観世音寺→天満宮の参道でおみやげを買う→帰路
坂本八幡宮は「令和」ゆかりの地として有名になった神社で、今回初めて行った。「令和」の出典は大伴旅人の邸宅で開かれた「梅花の宴」という歌会の序文からなんだけど、その神社の場所は大伴旅人の邸宅の近くであったかもしれないということで、それ以上の直接的なかかわりがあるわけではないみたい。神社の創建自体は、大伴旅人よりだいぶ後の時代みたいだし。それでも古くからその土地にある神社だけあって、こじんまりとしながらも神気ただよう雰囲気の神社だった。「がらんさま」と呼ばれる、千と千尋の神隠しに出てくるような緑がかった石が立っていて、立派な木が天高くに伸び、その向こうに小さな石の鳥居、そして奥に社殿がある。
坂本八幡宮から太宰府天満宮に戻る方向に少し歩けば、大宰府政庁跡のだだっぴろい草原。子供の頃にもここは訪れたことがあるんだけど、この場所が私は大好きだ。柱の礎石が残ったものが、そのままぼつぼつと並んでいる。子供の頃は、この礎石に座って写真をとったような記憶がある。
散歩に来たらしい地元の人が木陰に集まったりしていた。このような広い土地が史跡として保存されているのは、すごいことだなと思う。
歩いていると、そこかしこに万葉の歌碑がある。大伴旅人の歌もいくつかあった。
やすみしし わが大君の 食国は 倭も此処も 同じとぞ思ふ
「大君が治める国は、中央の大和も、ここ大宰府の地も同じだと思っている」という遠の朝廷大宰府の長官としての気概が詠われている。
そうして歩いていると、こういう歌碑もあった。
世の中は 空しきものと 知る時し いよいよますます 悲しかりけり (大伴旅人)
あんなに張り切っていたのに、何か悲しいことがあったらしい。何があったんだ、旅人…。この歌碑に会ったあとは、「旅人がんばれよ旅人…」とつぶやきながら道々歩いていた。
あとから調べると、この地で妻が亡くなったときの歌らしい。それを知ってみると、何にもたとえようのない悲しみを詠んでいることが伝わってくる。
私は歴史についても古典文学についても知識としてさほど身についていなくて、細かいことはすぐに忘れてしまうのだけど、こうやって土地や物を通して当時の人々の営みに思いを馳せるのが好きなんだと思う。とても心地よい旅だった。
『水中翼船炎上中』(穂村 弘)を読み始めた
2020年の初め頃だったか、まだこちらに引っ越す前に買った『水中翼船炎上中』をやっと読み始めた。穂村さんらしく装丁があまりにも凝っているので、ある程度家の中がきちんとした状態じゃないとなかなか読めなかった。手に取るのにも気を遣ってしまう。
穂村さんの歌は、言葉自体がまぶしい光を放っていて心がときめく。この感覚は吉本ばななの『キッチン』を初めて読んだときに近いかもしれない。
一首一首がそれぞれに美味しい。そしてそれがたくさんある。1ページに1~2首載っているとして、この本は200ページくらいあるのだ(もちろん章タイトルだけのページとかもあるんだけど)。初めの「出発」の章だけ読んで、もう今はこれ以上読むのはやめようと思った。時間をかけて味わわないともったいない気がする。
以下、『水中翼船炎上中』の中からいくつかの歌についての感想メモ書き。
みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと
「みつあみを習った」のあとに「窓」が来るのがすごい。みつあみを習った部屋の窓ということなんだろうけど、その省略の技術が視点を一気に移動させる効果も兼ねていて、短歌の魅力ってこういうところなんだなーと思う。そして「星がひゅんひゅん」に心をわしづかまれてしまう。
何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿
何もせず過ぎてしまったいちにち。それ自体は誰しも覚えのある経験。そこから「いちにちのおわりににぎっている膝の皿」と最後まで読むと、椅子に座っているのか体育座りしているのかわからないけど、なんだか妙に行儀よく固まってしまっている人の姿が現れる。過ぎる時間のなかで止まってしまっているその人の後悔のような、焦りのような感情が見えてくる気がする。
冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に
冷蔵庫のドアが開かれたままという状況は異常だということに、この歌を読んで気づかされた。
もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水
「もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな」状況ってわかる…と思うんだけど、それを鳴りそうな「時間」じゃなくて鳴りそうな「空気」と詠み、そのあとに「水」を配置することで、歌の情景ができあがるんだなー、と。
おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影
これもよくある日常の光景なんだけど、「あかときの台所」「立つ影」で何だか怖い感じに。「あかとき」という単語、よいですね。