緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

短歌とわたし ーはてな題詠「短歌の目」の思い出ー

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

 わたしがこのブログを始めてから7年半がたちましたが、そのなかで一番思い出深いのは、はてな題詠「短歌の目」という短歌を詠むイベントに参加したことです。

 

 

tankanome.hateblo.jp

 

 2015年の春、穂村弘の『短歌という爆弾』という本に出会って短歌に興味をもち始めた頃、偶然この「短歌の目」という企画があるのを知りました。これはわたしにとって大きな出会いでした。それまで短歌を詠んだことのないわたしが手探りで短歌を作り、しかもそれをいきなり他の参加者にも見てもらえる、スターをもらえる、感想をもらえるというのは、とても醍醐味のある経験でした。同時にわたしもたくさんの参加者の作品に触れることができ、さまざまな個性の作風があって、この方の歌よいなぁ、好きだなぁと思える出会いもあり、刺激になり楽しかったです。参加人数も少なすぎず多すぎず、全員分の作品を無理せず読める規模だったのもよかったです。皆が楽しんでいるのが伝わってきました。

 結社だとかサークルだと、入会という手続きを踏んでその中でやっていくんだという決心が必要で敷居が高いのですが、この企画はただ自分は短歌を詠むだけで気軽に参加できるので、私のような小心者にはありがたかったです。ですが企画者・管理人である卯野さんは、毎月お題をアップし参加者全員の作品のリンクをとりまとめ、振り返りや総評まですべておこなっておられたわけで大変な労力だったと思います。このような楽しい場、短歌との出会いの場を作ってくださったこと、あらためて本当にありがとうございます。

 残念ながらこの「短歌の目」は2017年8月が最後となっています。第2回からほぼ欠かさず参加できていたことは、何事も三日坊主のわたしには珍しいことで自分でも驚きました。「短歌の目」は少しお休みをはさんで第1期、第2期が開催されていたのですが、第1期のときは毎月10首というなかなかハードなもので、なかには一風変わったお題もあり、毎回「全部はできないかも。今回は不参加かも」と思うのですが、なんとか〆切ぎりぎりに出来栄えはともかくとして10首作り上げていて、〆切ってすごいなと思うと同時に、やはり皆さんに見てもらえることが大きなモチベーションだったのだろうなと思います。第1期だけで90首もの歌を作ることができました。この企画がなければ、短歌初心者の私が毎月継続して作ることはできなかったでしょう。

 いまでも歌集や短歌の雑誌を買って読むなど、好きな気持ちは続いています。ただ、何度か自分で作歌にチャレンジしたのですが、このときのように継続して作ることはできず、ここしばらくはまったく作っていませんでした。ですが今回、この記事を書くにあたって、とある短歌投稿サイトを覗いてお題を見ているうちに1首作ることができたので投稿してみました。そのはずみで3日間継続して投稿することができています。またぼちぼち続けることができればと思っています。

 

 なぜ短歌を作りたいかというと、簡単にいえば楽しいからなのですが、もう少し詳しく言うと自分にとっては数少ない能動的な趣味だから、そして自分の生をなんらかの形にして残したいから、ということだと思います。形に残す方法として、ふつうの文章を書くのも好きなのですが、散文はあまりにとりとめがなく書いているうちに思考の深みにはまって書き進められなくなることがあります(もちろん書くことで思考が整理される側面もあるのですが)。

 一方、短歌を作ることは、自分の経験や思いをもとにして、これをどうやって三十一文字にするかというゲーム性があるので、思考そのものから一時的に解放される行為なのだと思います。ただ三十一文字に収められればよいかというとそうではなく、できあがったときの良い悪いが感覚的にわかるところが短歌の面白いところです。なんとなくリズムが悪い、無駄なつなぎがあって間延びしている、パンチが弱いと感じたら、よりよいリズムに、より密度高く、より発想を豊かに、自分のなかでOKと思えるところまで改良していくフェーズが楽しいのです。そういう作業のなかで歌ができあがった結果、思いもよらぬ発見のあることがあります。自分の頭の思考に即してただ考えているだけでは出てこないものが、一時的に思考から解放されて三十一文字のなかで言葉そのものと格闘することで生まれてくる。そういう作品を自分で作ることができたり、他の人の作品でそういう発見を感じる作品に出会えると、とてもうれしいです。

 常にこの過程を突き詰めて作歌の技術を磨いていけば、雑誌やコンテストなどの公募に投稿して選ばれることを目指すなどの目標も生まれてくるかもしれませんが、自分はいまのところそのレベルにはありません。もっと上達したい、いつかそのレベルにいけたらもっと楽しいだろう(同時に苦しさもあるかもしれませんが)という気持ちはありますが、たとえ上手くなくても、そのときそのときの思いと工夫が凝縮された三十一文字は自分にとって宝になるのだと思います。

 

 最後に当時の夏に詠んだ歌で、自分で気に入っているものをいくつか載せます。6年前の作品、あらためて読むと今よりずいぶん若い感性でびっくりしました。

 

 君とまだここにいるため残してる限りなく水に近いアイスティー

 

 おまつりにはずむ心で金魚掬うように私を掬ってみてよ

 

 遠い昔会ったことある気がするね  ふよふよ我に近寄る羽虫

 

 眠れない夜明けに君のすずが鳴りカーテンのすきま光が揺れる

 (4首目は吉本ばななの『ムーンライト・シャドウ』をモチーフにした歌)

 

 

式子内親王の歌 うたたねと夢

新古今和歌集をぱらぱら眺めているうちに式子内親王の歌が私の好みだということに気がついた。「うたたね」とか「夢」という言葉が出てくる歌が多い。安直かもしれないけど、式子内親王うたた寝という行為が好きだったんじゃないかと勝手に親近感を抱いている。うたた寝したり、目が覚めてもしばらく枕に頭をあずけてぼーっと物思いにふける時間、私は好きだし、式子内親王もそのような時間を意識している人だったんじゃないかと思う。

式子内親王への興味が強くなり、とうとう関連する書籍をいくつか買った。その一つが竹西寛子さんの『式子内親王・永福門院』という著作。これを読んでいるとまさに私の好きな式子内親王そのものという歌が出てきた。

 

 見しことも見ぬ行末もかりそめの枕に浮ぶまぼろしの中

 

これは現存する式子内親王の三つの百首歌のなかではもっとも早い時期に成立したと思われる『前小斎院御百首』に入っているとのこと。つまり比較的若い頃の作品と思われる。竹西寛子さんはこの歌を好み、著作の初めにこれを取り上げておられるのだけど、その嗜好、感性に私も共感する。

こんなに端的に、人生の来し方行く末に対する漠然とした不安、とまどい、不思議さ、それらがないまぜになった気持ちを表現したものがあっただろうか。本当にそうなんだよね、と、この歌を見るとしみじみと思う。未来の自分なんて想像もつかないし不思議な感じがするのだけど、同じくらい、過去にいた自分もそのときにあった世界も、本当に存在したんだろうかと不思議で信じがたい、まぼろしのようなもの。そして過去の自分も未来の自分も現在の自分とつながっているということが、ごく当たり前なのに不思議すぎる。

これを無常観とも言い表せるかもしれないけど、あまり達観した感じではなく「何か不思議だよね」という感覚をダイレクトに伝えている気がする。それこそ、こうやって個人の日記に書いてあるような感じで。でも、ただの散文なら、さらっと書けるけど、それを歌として美しく仕上げてるのだから、すごい技術だよね。この完成された歌を見るとさらりと詠まれているようにみえるけど。

 

ほかにも式子内親王の歌をいくつか読むと、やはり夢というものの不思議さに魅入られていたように思える。いくつかそのような歌を並べてみる。

 

 かへりこぬ昔を今と思ひねの夢の枕に匂ふ橘

 

 夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね

 

 束の間の闇の現もまだ知らぬ夢より夢に迷ひぬるかな

 

 始めなき夢を夢とも知らずしてこの終にや覚め果てぬべき

 

夢の不思議なところは、見ている間は夢だと気づかないところ。だからこそ、夢と現は入り混じる。そんな歌をいくつも詠まれている。言葉の響きも、その物の感じ方自体も美しくて、読んでいて心地よい。そんな式子内親王の歌にとても惹かれている。

 

『水中翼船炎上中』(穂村 弘)を読み始めた

 2020年の初め頃だったか、まだこちらに引っ越す前に買った『水中翼船炎上中』をやっと読み始めた。穂村さんらしく装丁があまりにも凝っているので、ある程度家の中がきちんとした状態じゃないとなかなか読めなかった。手に取るのにも気を遣ってしまう。

 穂村さんの歌は、言葉自体がまぶしい光を放っていて心がときめく。この感覚は吉本ばななの『キッチン』を初めて読んだときに近いかもしれない。

 一首一首がそれぞれに美味しい。そしてそれがたくさんある。1ページに1~2首載っているとして、この本は200ページくらいあるのだ(もちろん章タイトルだけのページとかもあるんだけど)。初めの「出発」の章だけ読んで、もう今はこれ以上読むのはやめようと思った。時間をかけて味わわないともったいない気がする。

 以下、『水中翼船炎上中』の中からいくつかの歌についての感想メモ書き。

 

みつあみを習った窓の向こうには星がひゅんひゅん降っていたこと

 

「みつあみを習った」のあとに「窓」が来るのがすごい。みつあみを習った部屋の窓ということなんだろうけど、その省略の技術が視点を一気に移動させる効果も兼ねていて、短歌の魅力ってこういうところなんだなーと思う。そして「星がひゅんひゅん」に心をわしづかまれてしまう。

 

 

何もせず過ぎてしまったいちにちのおわりににぎっている膝の皿

 

何もせず過ぎてしまったいちにち。それ自体は誰しも覚えのある経験。そこから「いちにちのおわりににぎっている膝の皿」と最後まで読むと、椅子に座っているのか体育座りしているのかわからないけど、なんだか妙に行儀よく固まってしまっている人の姿が現れる。過ぎる時間のなかで止まってしまっているその人の後悔のような、焦りのような感情が見えてくる気がする。

 

 

冷蔵庫のドアというドアばらばらに開かれている聖なる夜に

 

冷蔵庫のドアが開かれたままという状況は異常だということに、この歌を読んで気づかされた。

 

 

もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな空気のなかで飲んでいる水

 

「もうそろそろ目覚まし時計が鳴りそうな」状況ってわかる…と思うんだけど、それを鳴りそうな「時間」じゃなくて鳴りそうな「空気」と詠み、そのあとに「水」を配置することで、歌の情景ができあがるんだなー、と。

 

 

おまえ何を探してるのとあかときの台所の入り口に立つ影

 

これもよくある日常の光景なんだけど、「あかときの台所」「立つ影」で何だか怖い感じに。「あかとき」という単語、よいですね。

 

新古今和歌集たのしい

新古今和歌集の歌が好みかもしれない。私は現代短歌でもどちらかというと、エモーショナルなものよりも、軽みのある歌が好きである。エモいのもよいのだけど、そういうのがたくさん並んでると読むのに疲れてしまう。

新古今和歌集は適当にぱっとページを開くと美しい言葉たちが目に飛び込んできて、それだけでうっとりする。一見して字面がよくて惹かれた歌は、読んでみるとやはり調べも良く内容も好みで、作者を見たら定家だったり式子内親王だったり鴨長明だったりするので、やはり良い歌というのはかたちから優れているものなのだなぁと感心してしまった。時代を超えても歌の良し悪しが理屈でなくわかるのはなぜなのだろうと不思議に思う。

いくつか好きだったものを挙げる。

 

420 さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月を片敷く宇治の橋姫   定家朝臣

 

240 帰り来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕ににほふたちばな   式子内親王

 

321 ながむれば衣手涼し久方の天の河原の秋の夕暮れ   式子内親王

 

232 たまぼこの道行き人のことつても絶えてほどふるさみだれの空   藤原定家朝臣 

 

268    夕立の雲もとまらぬ夏の日のかたぶく山にひぐらしの声   式子内親王

 

347    小倉山ふもとの野辺の花すすきほのかに見ゆる秋の夕暮れ            読人しらず

 

242 五月闇みじかき夜はのうたた寝に花たちばなの袖に涼しき   前大僧正慈円 

 

333    秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも            人麻呂