緋綸子の雑記帳

私が誰かのブログを読んで楽しむように、見知らぬ誰かが私の記事を読んでくれたら。

『方丈記私記』堀田善衛

方丈記私記』は、買ったのをしばらくそのままにしていて、実際に本を開いてみたのは2020年3月9日の仕事帰りのバスの中だった。驚いたことに、この本の書き出しは1945年3月9日の東京大空襲のことから始まっていた。同じ日だ!とその偶然に興奮した。それにしても、いつのまにか75年もたっているんだな(私の子供時代に戦後50年というフレーズをよく聞いていたので、そのイメージが強い)。

しばらく著者の体験の話が続き、当時の公式記録が記され、そして方丈記における火災の描写の話に移っていく。私は『方丈記』の現代語訳付きを持っていてパラ読みしたことがあるけど、あの火災の描写は端的で視覚的で、文章表現としても心惹かれる名文だと思う。

私がこの本を読み始めた2020年3月9日は新型コロナウイルスが想像した以上にやっかいなものだとわかり始めた頃で、飲み会、送別会の中止など、徐々に日常生活にも影響が出始め、不安や閉塞感を感じつつあったときだった。

方丈記私記』冒頭では、堀田善衛が文学つながりの友人と話をしているときに警戒警報を聞き、その後大空襲を目の当たりにした。大勢の人がほんの短い間に黒焦げになり、一歩ちがえば自分が死んでいるかもしれない状況とそのときの心情が淡々とつづられている。

爆撃のあとの巨大な火焔が広がっている地域に作者の知人がいたらしい。そのことを思った時、作者の脳裡に浮んで来たのが、『方丈記』の

「その中の人、現し心あらむや。」

だった。

「私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ」

「人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感した」

「そうして深く黙したまま果てることが出来ないで、人として何かを言うとしたら、やはり、その中の人、現し心あらむや、とでも言うよりほかに言いようというものもないものであるかもしれない……。」

と続けている。その知人のことを、一人の親しい女と書いてあったので、この文章を読むと恋人だったのだろうか?と、少し気になったのだけど、その女性が(おそらく)火に焼かれて死んでしまい、作者がこのような思いをいだいたという事実の前には、恋人であったかどうかを私が気にすることはナンセンスな気がした。

日々を生活していて突然、苦しみや死が襲うかもしれないこと。大小や多寡はあれど、いつの年もどこの土地にいてもこうした禍がゼロになることはなく、現在のような新型コロナウイルスの流行下では特に、常に頭のどこかで意識させられる。

方丈記の時代や東京大空襲のときの惨状と現在の状況とは異なるけれど、鴨長明、1945年の堀田善衛、そして現在の私と、長い長い時間のへだたりがあるにも関わらず、書かれたことを読むことで何かつながっていっているような感覚を味わえた。

 

こうやって興味深く読み始めたのだけど、最初から順番にきちんと読もうとしても、なぜか途中でやめてしまう。なのに、たまたま思い立った時に開いて何となく惹かれたページを読むと、すごく面白い。

インパクトが強かったのは、第三章。東京大空襲のあと、著者が前述の親しい女性のいた深川の焼け跡に行き、あてもなく歩いていたところ、富岡八幡宮跡に突然、焼け跡とはまるで不調和なぴかぴかの自動車から軍服と長靴を身に着けた天皇が下りてきて、高位の役人や軍人に囲まれ視察を始めた(著者は偶然それをコンクリート塀の陰からのぞくような形になった)。そこへいつのまにか、周囲に罹災した人々が土下座して集まり、涙を流して申し訳ありません、申し訳ありません、と繰り返していた。その光景を見たときの著者の心情がつづられている。まだこの本を全部は読んでいないけど、まちがいなくこの章、この場面は読むべきハイライトの一つだと思う。

あとは第六章の「あはれ無益の事かな」の鴨長明のエピソードはすごく好き。長明という人間の底知れなさ、複雑さが描かれていて。私は鴨長明の『無名抄』を持っていて、これもパラ読みしたことがあるんだけど、自分の歌が歌集に採用されたり、尊敬する人に褒められたりすると「自分ではそんなことを願ってもみなかったのに、このような身を引き立ててくださって」とめちゃめちゃ喜んでいて、その見え透いた謙遜も含めてかわいい♪と思っていたんだけど、そんな単純にかわいいだけの人であるわけがない。でも私、清少納言もそうだけど、昔の人の見え透いた謙遜しながらの自慢エピソード、無邪気な感じがして好きなんだよな。

まあ、簡単にどんなエピソードかというと

 石川やせみのをがはの清ければ月も流をたづねてぞすむ

という長明の歌に対して、賀茂社歌会で、石川の、せみの小川などという川は聞いたことがないという話になって、この歌は負けになった、と。そのあと、この歌会での判は公正に欠いたという噂が出回って、ある人に再び判をやり直してもらうことになった。このときに判を乞われた顕昭法師という人が長明に確認してみると、「是はかも河の異名なり。当社の縁起に侍る」と答えた。このことで、長明と仲の悪い賀茂社禰宜祐兼が「われわれのような素人連中の前であんな歌を詠んで、ひっかけるとは無念なことだ。一杯くわされた」と怒り出した。長明はもちろんそのつもりで仕掛けたのだろう、と著者(堀田善衛)は言う。長明は賀茂社の重代の家に生まれたが早くにみなしごになっており、この執念の奥には「みなしご」長明がいる。

そして、この「石川」「瀬見の小川」は歌人の間でも使われるようになる。さらに、長明の「石川や」の歌はとうとう新古今集に選ばれる。そのことについて長明は

「生死の余執ともなるばかり、うれしく侍るなり。但あはれ無益の事かな。」

すさまじい執念の、そのすぐあとに、但あはれ無益の事かな。という、全否定が来る。これについても著者、堀田善衛は思いをめぐらせていて、それがまた興味深い。

 

私は無名抄を読んで長明が好きになったので、歌人としての長明が堀田善衛によって紐解かれるのはすごく興味深いし、うれしい。なぜかなかなか読み進められないけど、そのうち『方丈記私記』完読するぞ。